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#91 性格や人格は変容する?

■性格の呪縛から解放される生き方

世の中には「性格」をあらわす指標がいくつかある。
いくつもあると言ったほうがいいのか。

心理分析を行う精神医療・心理学分野のものもあれば、占星術、手相・人相、血液型など、ちょっとアレじゃない?というものまでさまざまだ。

性格にまつわることは、心理学では行動、認知、情動の特徴的な集合として定義され、動機と環境との心理的相互作用に焦点を当てて説明されている。

ある意味おもしろいなと思う反面、難しいな思うのである。
いくら科学的な手法による分析結果でも、それが性格を変えてくれるわけではない。

ゲイの精神科医Tomyの数々の著書は読んでいないが、彼が旧Twitter時代から毎日発信してきた癒やしの言葉にずっと注目してきた。

Tomyは、「性格はそもそも変容していくもの」と述べている。
むしろ、性格に固執するよりも、環境を変えるとか、外との関係性の中で考え方や生き方を変えることが重要になってくると私は理解した。

結果的に「明るい性格になったね」と言われるようになればいい。
それを「性格」の変容と捉えてよいのかどうか専門家でない私にはわからない。
でも、確かに人は変わる
(良い性格とか、悪い性格とか・・・・)

私の場合、いろんな悩みや生きづらさを抱えている人(過去は高校生、現在は大学生)と面談しながら、その人の人生を振り返り、その物語から環境や人間関係を理解しようと試みる。

もちろん、明らかに主訴のレベルが重いとか、発達の偏りが顕著なら、当事者に寄り添いつつ、必要な専門家につなぐようにしている。

よく若手教員にも話していたことだが、教員は真面目なので「自分で何とかしよう」と思ってしまう傾向がある。

教員の中には「私の力量が無いと思われるのは恥ずかしい」と考え、一人で抱え込んで教育相談の沼にハマって、自身の心が病んでしまうこともある。学級崩壊、授業崩壊も似たような構造だ。

命にかかわることもあるので、手放す(専門家に委ねる)見極めも重要だ。
それは恥でもなんでもない。

■「私ってこういう性格なんです」は
「だから何なの?」でしかない

イラストACサイトより

もちろん、相談者を冷たく突き放す言い方などしたことはない。

「わたし、AB型なので性格が怪しいというか特殊なんです・・・・」

「えっ?AB型って血液型のあれ?」

「ハイ、わたし典型的なAB型なんです」

「いや、それじゃ同じAB型の私も典型的な怪しい人ってことか。自分をそういう風に思ったことないけどね」

「すみません、先生は怪しくないです(^^ゞ」

「だろう?(笑)私がいい人かどうかは別として、血液型性格診断って何なんだってことにならない?」

「ですよね・・・・」

「そう。血液型より、もっと大切なことがあるんじゃないかな」

人は容姿や性格などの外見で悩んでいるというよりは、もっと深いところ、つまり、自分自身の生き方やあり方が周囲と不整合を起こして悩んでいることのほうが多いと感じるのである。

ジョハリの窓

「明るくて社交的で悩み過ぎず、朗らかにのびのびと生きるほうがいいよ」
とアドバイスされたって、そう簡単に受け入れて変われるわけではない。

ハッピーに生きるためには、環境への適応状況を変えるほうがよい。

私は社交的じゃなく人見知りもするし、面倒なことは避けたいし、のびのび生きてこなかったし、人生順風満帆だったわけでもない。

「私の知らない私」を指摘されて嬉しかったことはある。
だから相談することで動き出すきっかけになるなら有効だと思う。

私は私の性格うんぬんではなく、環境を変えたり、環境へ適応する心のさばき方を変える術を身に付けたからこそ、大きな不幸を感じずに生きてこられたのだと思う。

性格を専門的に分析して、臨床心理的な適切なアドバイスをする分には十分に意味があるのかもしれない。

素人が人の性格を把握して何ができるかというと、仲間とうまくやれない理由の根拠にしたり、何か満たされない不満のある自らの性格(又はあの人の性格)をどうにかしたいという思いを強めるだけだろう。

そもそも、科学的・心理学的に正しい分析だったとしても、それは個人の行動傾向を把握するだけであって、改善するための指針ではない。

多くの人は「性格」を超越した別な部分で、環境整備や居場所づくり、相談できる人や理解してくれる人の確保を通じて、いろいろな調整能力を身に付けて生きているはずだ。

だから性格をとらえてクヨクヨ考えることはない。

生きづらさを変える根本は性格を矯正することなどと考えず、環境に適合したり環境を変えるためにどうしたらよいかを考えることだと思うのだ。