「ハッピーバースデー任意」鈴木鹿(56枚)

〈文芸同人誌『突き抜け12』(2016年11月発行)収録〉

 悟りきっているかのような顔をした赤ん坊というのは意外と少なくない。ぴんと来なければ、気をつけて観察してみるとよい。週末のショッピングセンターに足を運べば世の中の少子化を疑いたくなるほど赤ん坊が大漁だ。地域の赤ん坊のすべてがそこに集まっているかのようだ。ベビーカーに横たわる表情、抱っこ紐の隙間からのぞく表情には、なんの迷いもなく、なんのやましいこともなく、彼または彼女自身を限りなく純粋にまっとうしているのがわかる。だれも傷つけず、だれにも影響を与えない。
 どうしてそのような赤ん坊が多いのか。人は成長するにつれ……という言い方は適切ではないかもしれない。経験を積むにつれ……これも適切ではないかもしれないな。よりニュートラルに言うならば、この世に生を受けたときから多くの時間を経過するにつれ、どんどん余計なものがまとわりついてくるのだ。毎日、毎日、四六時中、静電気で吸い寄せられるペラペラのテープみたいに。たとえ一枚いちまいの粘着力は微々たるものだとしても、時間が経てば経つほど、まとわりつくものが多くなればなるほど、それらを剥がすのは至難の業となる。
 悟るというのはつまり、これらのまとわりついた余計なものすべてを剥落させ、きれいさっぱりすることである。もちろん余計なものがまとわりついたままでも人は生きていけるし、そうやって死ぬまで生きる人がほとんどだ。ただし稀に、ふとした拍子にその不自由さに気がついてしまう不運な人がある。そういった人だけが、なんとかならないものかともがく。怪力でむりやり引き剥がそうとしてみたり、猛スピードで走って振り落とそうとしてみたり、あるいはテクニックでなんとかしようとしてみたり、古今東西、実に様々な試行錯誤が行われている。なお、このような努力をせずとも、より長い時間を経ることによって自然と剥がれ落ちることもある。老衰と呼ばれる現象である。
 さて、赤ん坊にはそれがない。それだけのことである。赤ん坊たちは、悟りきっているかのような顔をしているだけではない。実際、悟りきっているのである。
 しかしながら、悟りとは至るものであり、いっぺんまとわりつかれなければならないという固定観念、暗黙の前提があるため、まとわりつかれる以前の赤ん坊のことを悟っていると呼ぶことはない。無垢、あるいはより直接的に幼気という言葉が概ね等しいものを指しているようであるが、大の大人が無垢になりたいとか幼気に至りたいと願うとかいう話は聞かない。
 縦郎もまた、悟りきっているかのような顔をした、たくさんの赤ん坊の中のひとりであった。ただ一点のみ、その他大勢の赤ん坊と違ったのは、自分が悟りきっていることを自分でわかっていることだった。
 縦郎に言葉はない。語彙もなければ文法もない。釈迦のように生まれて間もなくすっくと立ち天上なんとかと言葉を発したわけでもない。それでも本人からすればわかってしまうのだから仕方ない。言葉を通さずにわかるということを言葉で記述するのはなかなか困難で、まあ、直感的に、などという表現はよく使われるところであるが、それもある意味では暫定的な表現でしかないのかもしれない。
 縦郎は、生まれつき悟っていることを、生まれつき自覚していた。そして、この状態が確実に失われていくことをわかっていた。それが至極普通のことで、ほとんどの人がそのような人生を送るのだということ、ことさらに嘆くべきではないということも。
 普通の悟っている人は、悟っているがために、その悟っている状態にすら執着しないものなのかもしれない。けれどそのような人は人生の艱難辛苦を経たうえでの現在の立ち位置なわけで、それこそ生きていくための最低限の知識や生活基盤をとっくに手にしているのである。だから執着しないでいられる。執着せずとも維持が可能だからである。
 しかし縦郎は違う。なんせまだ生まれたばかりの赤ん坊である。悟りよりも生命の維持を優先しなければならない。そして、人として生を受けた以上、縦郎が生命を維持するためには、獲物を狩るための爪や牙を得るのでも、速く泳ぐための鰭を得るのでもなく、社会性を獲得しなければならないのは自明である。体力、腕力もあるにこしたことはないが、なにより言語、そして他者と共にあることを可能にする能力が必要不可欠であり、さらにはそのようなコミュニケーションスキルを駆使して他者と関わりながら人としてあらゆる経験を積み、生きていくための知識、そして生活の基盤を得なければならない。自分で食っていくということと、他人に食わせてもらうということの間にそれほど大きな差異はない。人はだれかとのかかわりあいの中でしか食べていくことができない。
 選択の余地なく、縦郎は生きていく術を身につけていかねばならない。それは余計なものをまとわりつかせることにほかならない。一枚いちまいぐるぐるに巻かれぐちゃぐちゃにくるまれて、やがて縦郎の悟りは深奥の彼方に見えなくなってしまうだろう。ただ、縦郎は既に気づいてしまっているのであり、気づいてしまったことを気づかなかったことにできないのが人である。少しずつ悟りを減衰させしまいには完全に失っても、いずれ必ず再び悟りたくてたまらなくなる。そのときになってその身に分厚くまとわりついた粘着テープを、怪力や猛スピードやテクニックで剥がそうとしても、そのようなプロセスは一朝一夕で済むものでは到底ない。そう、悟った人というのは悟ることそれ自体に多大な労力と時間とをかけ、あるいは身を削り生命を縮めて、その人生の大半を費やしてしまうことがほとんどだ。
 であれば、できるだけこの状態を維持するのがよい。縦郎はそう考えた。考えた、いや、直感的にそのように選択した。もちろん生まれたての状態のまったく同じままを維持することは不可能だ。だからといって無為に成長するだけでは将来的に労力と時間の無駄だ。
 できるだけ維持すること。それを忘れないことが肝要だ。どんなにきれいに生きているつもりでも、生きている以上は部屋に埃がたまるのだ。ただし、目につくほど汚れる前に掃除をし続ければ部屋はずっと汚れないままだ。それと同じように、否応なくまとわりつく粘着テープをその都度取り払っていく。ちょっとまとわりついたらすぐ剥がす。すぐに剥がせば簡単に剥がれる。ためこまない。なにかのついでにできるレベルでわずかの労力を積み重ねる。これが、縦郎が本能的に講じた策であった。


 策といっても縦郎は当初、特になにもしなかった。栄養を、刺激を、与えられるがままにした。人は鹿のように生まれ落ちてすぐに立ち上がることができないから、ある一定の期間は施しを受け続けなければならない。大儀だが仕方ない。
 基本的には、まったくの手ぶらで生きていきたいと考えていた。比喩的な意味でも、物理的な意味でもである。ただし、手ぶらということはなにもないということではなく、必要なものすべてが自分自身に備わっているということだ。または、自分自身に備わっているものだけですべてやっていこうという覚悟だ。どちらが先かはどうでもいい。手ぶらであり続けるためにこそ持たねばならないものがある。まずは、生物としてサバイブするための肉体的な面でのビルドアップ、そして人として獲得すべき社会性の基礎の基礎。
 いうなれば縦郎は無菌状態の土であった。己を耕し、肥料を与えなければ人にはなれないことをわかっていた。ありのまま、土のままであり続けられたらそれもまた理想的なありかたのひとつではあるかもしれないが、縦郎にとっては人になることこそが自然であった。
 例えば予防接種の注射において、縦郎は当初、注射針が二の腕に刺さるその瞬間まで、泣くことができなかった。刺さった瞬間に痛くて泣いたが、刺さる直前までは泣けなかった。予測が立たなかったからである。しかし、何度か繰り返すうちにやがて縦郎は、医師が注射器を手にしたときから、あるいは病室に入ったそのときから泣くことができるようになった。予測が立つようになったからである。つまり、怖さの獲得である。これを余計なものと位置づけることもできなくはない。けれど、これもまた人がサバイブするためには重要な危機回避能力、センシング能力であることに違いはない。縦郎は受け入れた。怖さを獲得し、共に生きることにした。なお、予防接種において肉体的な意味で免疫を得ることの重要性はいうまでもない。
 いったいなにが先天的で、なにが後天的なのか。先天的だと考えられていたものが後天的だったり、後天的と信じられていたものが先天的だったり、研究と倫理とが交差しながら先天と後天が流転する。
 縦郎は青や紺の系統が面積の多くを占める衣料を身にまとっていた。周囲のだれもそれを不自然に感じることはない。縦郎はあてがわれるままにしていた。仮に抗ったとしても裸でいるわけにはいかないのだ。縦郎はまだ無力であった。自他共に認める無力であった。乳は美味しかった。
 もっぱら横臥の毎日を経て、少しずつできることが増えていった。概ね標準的とされる時期にチェックポイントを通過した。当面はフィジカルの強化がほとんどであったが、それは単に筋力の強化だけではない。脳の指令と肉体の連動、アスリートのようにとまではいかないまでも意のままに体を操る能力を縦郎は育んだ。つかまりながら立ち上がる縦郎。つかまりながら歩を進める縦郎。手に、足に、ぎゅっと力を込め、上を向いて口を大きく開けて声帯を震わせ、空気の振動。自らの足で立ち、なんの支えがなくともどこにでも歩いて行けるようになること。それはつまり移動の自由の獲得であり、たいへん喜ばしいことであるが、かといって縦郎が実際にどこにでも行けるかといえば、まだまだそんなことはないのであった。
 寝顔を覗き込んでくる成人の存在に気がついたとき、縦郎は微笑んだ。たとえ縦郎が意識して、自らの意志で、顔面筋群を意のままに操ってつくった笑顔ではなくとも確実にそれは社会性の獲得の萌芽であり、縦郎が獲得しなければいけない要素であると同時に、余計なものを含んでいることも事実であった。いつか部分的に取捨選択して剥落させる日が来る。その日まで、その上に何層にもまとわりつかせ奥深い地層に埋没させるのではなく、いつでも引っぺがせるように維持することが肝要である。
 また、まとわりつくものはなにも精神的なものだけではない。肉体的な面でも癖がつき始める。しかし、仮にまったく癖のない状態というのが存在するとして、完全なシンメトリー、完全なニュートラル、完全に無駄のない動作があるとして、それが現実的にはありえないということはおいといたとして、果たしてそれを自然といえるのかどうかは微妙なところだ。それもひとつの癖だという考え方もできなくはないが、ややこしいのでやめにしておこう。いずれにせよ、かつて天地と和合していたもの、すなわち肉体が人として自立しようとしている一大事なのだから癖ぐらいは仕方ないのであって、多かれ少なかれ癖は必ずつくものであり、程度問題でしかない。程度問題の幅の中でいかに少なかれ方向に持って行けるかどうか、という努力を続けるぐらいが落としどころだろう。
 言語を得つつある縦郎は、簡単にではあるが思考を組み立てることができるようになってきた。無形だった理解に形が与えられつつあった。形が与えられることによってアプローチは間接的になるが、それと引き換えに他者との共有が可能になってくる。まだまだ語彙が不足しているため、そして論理の技術も未成熟であるため、抽象的なメッセージを形成することはできない。縦郎はただ、自らの欲望という形をとったメッセージを主に発することによって、他者とのコミュニケーションと、自己との対話を始めたばかりだった。単純な筋道の連結によりぼんやりと像を結び始めた思考の中で、まだしばらくはこの方向性でいくべきだ、と縦郎は思った。テレビの中のヒーローやケーキ屋さんになりたがる同年代の子供たちはみな子供に見えた。


 保護者から離れて過ごす時間が増え、ひとりで過ごす時間も増えて、人の社会で独立して生き残るために最低限は必要な、それなりの語彙と文法を獲得した頃、縦郎の肉体もまた大きな変化を遂げようとする真っ只中であった。体つきががっしりとし始め、声が掠れて太くなり、そこかしこに発毛。第二次性徴である。第二次性徴という言葉もついこのあいだ保健の授業で習ったところだ。
 縦郎は男子中学生としての日々を謳歌しながら、できるだけまとわりつくものを最低限にとどめ、剥がそうと思えばいつでも剥がせるような薄さを維持しようと、あるいは、ある程度の厚さになるのがやむを得ないのだとすれば、端を引っ張るだけでぺりぺりときれいに剥がせるように秩序立てておこう、その秩序を理解しておこうと努めていた。
 この頃になると縦郎も、悟った人という存在が一般的に抱かれているイメージを知識として得るに至っていた。悟っている人には世捨て人のような人が多い。その風貌も、髪や髭が伸び放題であったり、見るからに不潔であったりと、あたかも社会との関わりを断っているか、社会に受け入れられることを放棄しているかのようだ。または逆に、つるんとしている。剃り上げた頭髪をはじめとして、全体的につるつるとどこにも取っかかりのないような。どちらにせよ彼らはいつだって超然としていた。たとえ世が戦乱のため殺伐としているような時代であっても、せわしなく一喜一憂したり、慌てふためいたりしない態度があった。そして彼らは、性欲とは無縁の生活をおくっているかのように見えた。
 目下、縦郎にとっての戦乱、縦郎にとっての殺伐は、すなわち性欲であった。勉学や運動、保護者との距離感など、生活の中には様々な要素が絡み合い、それぞれにそれなりに小さな悩みのようなものもなくはなかったが、さしあたり、取り急ぎ、喫緊のテーマであり続けたのは常に性欲であった。思考のレイヤーをどんなに重ねても常にいちばん前面に表示されるように固定されていた。
 性欲もまた、いずれ手放すものでなければならないのだろう。このことは縦郎を大いに悩ませた。というのも、他の人のことは知らないが少なくとも縦郎にとって、性欲は外的に付与されたというよりは内的に湧き上がってきたもので、これは乳歯が抜け永久歯が生えてきたことと同じようなもので、どうしようもないというか、避けては通れないことのように思えた。
 強い、弱いというのは個人差があるのだろうし、まったくないという人も中にはいるだろう。ただし原則としては、生物として抗えないようプログラムされているのだとすれば、それを捨て去るということは果たして自然なことだといえるのだろうか。だれにも話せず、縦郎は悩んだ。恥の感情は既に手に入れた後だった。
 光明は男子更衣室の噂話によってもたらされた。学年ナンバーワンの学業成績を誇る同級生が祖父から密かに聞いたところによると、性欲は加齢によって減退していくものであるらしい。縦郎をはじめ一同にはにわかに信じがたい情報であったが、だとすれば納得がいく。つまり、悟った人たちというのはそれなりに年齢を重ねている場合がほとんどであり、彼らが性欲にとらわれていないように見えるのは、つまりそういうことなのではないか。悟りへの到達と性欲の有無は、相関関係は認められるかもしれないが、因果関係はないのではないか。
 この考えに至り、縦郎はようやく自らの性欲と真正面から向き合うことができるようになった。肯定することができた。いっぺんすっきり肯定してしまえば、そこからは実に建設的に思考が進んだ。縦郎にまとわりつこうとしていた薄皮が、はらりと剥落したような感じがした。それは初めての経験であった。
 性の営みについて、いつか一通りのことは経験することになるだろう。縦郎は身の引き締まる思いであった。もちろん相手あってのことであるから、縦郎の意志だけでどうにかなるものではない。クラスメイト、部活の先輩と後輩、学習塾の大学生アルバイト講師など、縦郎は思いつく限りの美しい顔を次々に思い浮かべてみた。縦郎がコントロールできない要因が、そこにはたくさんあるように思えた。


 慕われもせず疎まれもせず、なんの凹凸も節目もないままに学校生活は平穏無事に経過していた。平穏無事に過ごせない者が決して少なくない中でそれは紛れもなく幸福なことであった。他愛ないやり取りも真剣な意見交換も経験しつつ、没入することもなければ浮くこともなかった。できるだけ突出せずにあろうと縦郎が意図していたわけではないのだが、いつも結果的にそうなった。縦郎が保ち続けていた対象との距離感、そして自意識との距離感は、決して表立ってなにかを主張することはなかったけれど、縦郎の発言や立ち居振る舞いから立ち上るムードとして漏れ出ていた。
 学校での縦郎も、塾での縦郎も、家での縦郎も、だいたい同じで特に変わらなかった。朝も昼も夜も平日も休日も縦郎はいつでも思ったことを適切と思ったタイミングで発言したし、なんらかのアクションに対しては適切と思われるリアクションを行った。空気が読めていると思ったことはなかったが、空気が読めないと罵られることもなかった。よく一緒に過ごす者はいたけれど、家が近かったり、塾が同じだったりして、自然とつるむことが多かったというだけで、そこに友情と呼ばれるなにか得体の知れない空気が流れているかどうかはわからなかった。
 学校の担任教諭は熱意の化身のような人物だった。担当教科の授業のときは凡庸だが、ことホームルームや生徒指導というシチュエーションにおいては、生徒に対して熱っぽく語りかけ、説き伏せ、なだめすかし、あの手この手で根掘り葉掘りして、言動の表面的な見た目の裏に隠れた深い深い奥のところに触れることが仕事の醍醐味だと感じているように見えた。そんな教諭と最初で最後、一対一で話すことになったのは、中学三年の夏の進路指導の面談であった。
 縦郎は中学を卒業後は、高校に行くつもりだった。家での会話も学校での会話も塾での会話もすべてがそれを前提にして進んでいたからで、もちろん世の中の制度として高校からは行かないという選択肢があることも知っていたが、行かないという選択肢を積極的に選択する理由が縦郎にはなかった。
 ある日のホームルーム、担任の教諭から紙が配られた。希望している進路、志望校について記入のうえ期日までに提出するよう説明があった。その紙を見たとき、縦郎がまず思い浮かべたのは、塾で定期的に実施されている模擬試験の結果にくっついてくる、高校の合格判定の紙であった。塾で模擬試験を受ける際にも志望校を書くように指示があったはずだが、周囲の生徒がそうしているように縦郎もとりあえず地域の進学校の名前をいくつか記入しているだけであって、そこに積極的な理由はなかった。
 学校で配られたその紙にも、いつもの高校の名前を順に書けばいいと考え、そのようにシャープペンシルを走らせようとして、芯の先が止まった。紙を配りながら担任の教諭が発した、自分の将来のことを自分でよく考えて書くようにという旨の指示を思い出したからだ。縦郎は白紙で提出した。
 それが周囲と違う風変わりな行動であることを縦郎は自覚していた。もちろん、反抗を示したつもりも、波風を立てようとしたつもりも微塵もなかった。縦郎は教諭陣からの印象も悪くなかったから、少し驚かれるかもしれないし、当然、その理由を問われるだろうこともわかっていた。ただ、実際に書くことができなかったのと、白紙で提出することによってなんらかの有益な助言が得られるのではないかと期待していた。
 予想通りに職員室に呼び出され、片隅の、普段は素行不良の生徒が説教される小部屋に通された。初めて入ったその小部屋は意外と清潔だった。
 担任はにこやかに、ホームルームのときからは比べものにならないほど抑制したトーンで、縦郎の気持ちが俺にはわかる、という切り出し方をして話を始めた。このように態度の使い分けができる人間だったのかと縦郎は感心したが、しかしながらどんなに話が進んでも、担任が縦郎のどんな気持ちをわかっているのかについては全然わからなかった。
 担任は、やりたいことが本当はあるはずだ、あるだろう、それと向き合え、それを吐き出せ、という主張を言い方を変えながら繰り返しているだけで、やりたいことは特にないのだという縦郎の話は耳に届いても脳に達していないようだった。縦郎としては、このような自身の考えに合致する志望校の具体的なアドバイス、または多少ラディカルに、進学せずともよいのではというアイデアなどを期待していたのだが、担任の話は空疎な中心の周りをぐるぐると回り続けるだけで、その口調は次第に熱を帯び、いつものホームルームの感じに達し、そして超えた。
 縦郎の態度を無気力と結論づけた担任は立ち上がり、縦郎に小部屋を出るよう促しながら、出家でもしたいのかと半笑いで言った。出家など本来は必要ないと思う、と言いかけたけれど、説明しても無駄と思ってやめた。終始、担任は縦郎の態度がどうにも気に食わないようであった。気に食わないこと自体は別にどうでもよかったのだが、事態をややこしくしてしまったこと、互いの時間を無駄にしてしまったことを縦郎は悔い、反省して、次に生かした。


 高校は普通科を、大学は自分が比較的高得点をとれる教科を受験教科にできる学部学科を、自宅から通える範囲で選択し、費用面でも保護者に余分な負担を強いることなく、至極穏当に進学、卒業し、偽りの熱意を示さずとも試験の成績で合格できる地元自治体の職を得た。幸運だった。
 知識も経験もない新しいことを初めて学んでおぼえるとき、そして実行に移すときは、縦郎もどきどきしたし、わくわくしたし、へとへとになった。失敗したときには悔しく、必要に応じて頭を下げ、成功したときには嬉しくて胸をぐいと張った。
 縦郎はクールなわけではなかった。感情はその都度、しっかりと動いた。むしろその辺の同年代より、よっぽど豊かな喜怒哀楽を持ち合わせていた。赤ん坊の握力でもつぶせるようなぐにゅぐにゅの軟らかさで変化し、かつ弾力に富んで、ぽんぽんと跳ねた。
 なにがあっても動じないような感情の静止は、縦郎がありたいと思い続けてきた姿ではなかった。人の世が無風であるはずがないのは赤ん坊にだってわかることであって、そんな人の世に生きていながら感情が無風だというのは、感情がどっしり重たいコンクリートのようなものであることを意味する。それが自然な状態であるとは到底思えなかった。さらりとした水のようでいて、その都度の風に吹かれてその都度の波が立てばいいと思っていた。水のままで凪ぐには無風の場所へ、人の世にあらざる場所へ行けばよいのかもしれないが、人の世にあらざる場所で人として生きていく意味を縦郎は見出すことができなかった。生まれつきシティボーイだったし、農業も狩猟採集も上手くできるとは思えなかった。
 就職と同時にアパートを借りて独り暮らしを始めた。就職先も実家から通える距離だったので居宅を別に設ける物理的な必要は実のところなかったのだが、必要がなかったからこそ、ここがいいタイミングだと縦郎は判断した。
 保護者のことは嫌いでもなければ険悪なわけでもなく、べたべたと仲がよいということもないが、関係は悪くなかった。育ててくれた感謝の気持ちも自然と心に抱いていた。決して口うるさい保護者ではないと思う。進学先や就職先の選択に対してなにか文句を言ってきたこともなかった。ただ、進学や就職が決まった際には大きな喜びを、縦郎にとっては大げさに感じられるほどに大きく表現してくれたので、内心それだけ心配していたのだろうと祝いの寿司を頬ばりながら縦郎は思っていた。そのことを大きな心理的負担だと感じることはなかった。親というのはそういうものなのだろうと、親ではない身でありながら世の中に流布する親に関する言説を参考にして総合的に想像し、納得していた。
 なのに実家を出ようと決めたのは、同居人との関係性にかかわらず、ひとりであることが重要になりそうな気がしていたからであった。ひとりといっても四六時中というわけではない。そういうわけにはいかない。ただ、一日に少しの時間であっても、一ヶ月に何日かだけであっても、ひとりになって自分を省みることは、今このタイミングの縦郎にとって、とても大切であるように思えた。
 どうしてこのタイミングなのか。なぜならば肉体を得て、言葉を得て、そして職を得た縦郎は、ついに、生きていくための一通りのものを得るに至ったからだ。元々の計画、計画といっても言語化される以前の理路整然としていない方向性、ビジョンに、ようやく本腰を入れられるようになったのだ。機は熟した。熟すのに、思っていた以上の歳月がかかっていた。
 縦郎には、当初の想定を上回る量、上回る種類のいろいろなものがまとわりついていた。縦郎はこの状況を転じる必要があった。これまでにまとわりついてきたものについて、把握しようと試みてきた秩序を再確認しながら、少しずつでも剥がしていくこと。そして、これ以上まとわりつかせないようにすること。両方を、つとめて丁寧に。丁寧に暮らそうと思った。
 基本的な生活の維持は楽しかった。洗濯をしなければ着るものがなくなるのはすぐにわかったが、掃除をしなければ住まいがこんなにも汚れてしまうのは縦郎には驚きだった。それはまさに、縦郎が頭の中ではわかっていたのに、肉体を通してわかっていなかった強い事実であった。そのことが縦郎は嬉しくて、毎日簡単な掃除を欠かさなかった。
 健康を維持するためにもなるべく自炊をしようとは決めていた。なにがなんでも美味しいものを食べたいという欲望はそれほどなかったのでそんなに凝ることはなかったが、ごく基本的な料理はできるように努力した。野菜についた泥を洗って皮を剥いたり、剥いたそれらを鍋に入れて煮たりしていると、時間はあっという間に過ぎてしまうのだった。


 職場へは地下鉄で通っていた。歩いて通勤できる範囲内にアパートを借りることもできたが、学生時代、学校の近くに住んでいる者のアパートはだいたい溜まり場と化していたから、ひとりになりたくてアパートに暮らすのにそれでは本末転倒だと考えて、乗り換えは不要だがそこそこ離れた最寄り駅を選んだ。社会人というものはあまりそのような、仕事帰りに同僚のアパートに寄ってだらだら過ごすようなことはしないというのは後になって知ったが、だからといってわざわざ職場の近くに引っ越さなければならない理由もなかった。
 そもそも学生時代から、縦郎は公共交通機関が好きだった。そこは縦郎にとって貴重な、ひとりになれる空間だったからだ。人はいる。しかし全員他人である。毎日毎日、よくもまあこれほどの他人と出会い続けられるなと思うほど、全員が原則他人である。稀に知り合いと同じ車両に乗り合わせることもなくはないが、こちらが気づいても向こうが気づいていなければひとりの時間は続く。声をかけられれば無論にこやかに雑談を交わす。
 公共の場ということであれば例えば図書館にひとりでいることもできるし、試したこともあるが、やはりどこか意味合いが違う。地点Aから地点Bへ移動中であるという建前が、縦郎の存在を宙に浮かせてくれるような感じがするのである。
 地下鉄を降りて駅から地上に出るとすぐの、職場の古びた建物の、古びた廊下を抜けて古びた部屋の古びた席に着き、業務に必要なパソコンを起動し、終始にこやかに、時折真顔で、目の前の業務を遂行し続ける。職場の古びた空気に包まれ、湿った人間関係の網目の中をすいすいと勤労する。同じことを間違いなく正確に反復することを基本として、妥当と考えられている曖昧な範囲内での臨機応変な対応を交えることが期待されている。縦郎は期待に応え続ける。
 縦郎の評判は悪くなかった。ここでは縦郎のことを無気力だと罵る者はいなかった。とはいえ職場全体が停滞ムードに包まれていたわけではなく、どんどん偉くなっていってやろうという者はそれなりにいた。理想の社会の実現を目指す者、社会における自らの影響力を増大させたい者、自らの収入をいち早く上げたい者など、彼らのモチベーションは様々であった。ただ、すべての人間がのし上がろうとしては仕事は円滑には進まず、そうじゃない者が一定数いてこそ仕事が回っているのだという暗黙の共通理解があった。ここには多様な大人がいて、多様な大人が価値判断をする、多様なあり方が認められていた。それだけで少なくとも縦郎は、日々まとわりつき続けるものをリアルタイムで剥がし続けるぐらいには余裕をもって勤めることができた。
 仕事の意味は縦郎にとって生活維持のためのそれ以上でも以下でもなかった。仕事を通じた自己実現というものを必要とする人々もいるのだろうが、縦郎にとっては回りくどいものでしかなかった。自己は生まれつき実現されていた。ただし、じゃあ一生働かなくてもよいぐらいの資産を仮に有していたとして縦郎は明日にでも仕事を辞めるのか、またはより現実的に、一所懸命に蓄財あるいは利殖をすることで早期リタイアを計画するのか、といえば、そのどちらも縦郎の頭にはなかった。縦郎にとっての仕事とは、金銭的な意味を超えたところで、生活維持のために必要なものだった。なので、向上心は皆無だったが勤労意欲は高かった。
 集中力を消費した状態で職場を出て、まっすぐ地下鉄に乗る。地下鉄に乗りながら縦郎はひとりに戻っていく。波打っていたゴム風船のような心が抑制のきいたざわめきの中で凪いでいく。最寄り駅の近くのスーパーで食料品を買ってアパートに帰る。テレビをつけ、流したままでよく見もせずに、冷蔵庫にある残りものと、買ったばかりの惣菜と、簡単な料理を組み合わせてテーブルに並べ、ごはんと汁をよそい、缶ビールを開ける。頭と体の芯がじんじんと痺れて、縦郎はその時間をじいっと噛みしめるのである。この一杯のために働いている。そんなフレーズが頭をよぎる。この一杯のために働いているのではないことがわかっている者の頭にもよぎるのである。なにかがちょっと剥落したような気がするけど、酔いが回ってその正体をとらまえることができない。


 出勤と勤務と退勤と放心を繰り返す平日を経て、休日がやってくる。休日の時間の大部分はアパートで過ごすのが常だった。平日にはできないような洗濯と、平日にはできないような掃除とを済ませ、平日にはできないような買い物をして、休日に食べるもの、平日に食べるものを多めにつくって冷蔵庫に保存するところまでを、縦郎は半ば自動的に、半ば工夫を凝らして楽しみながらこなした。
 ひとりの時間が圧倒的に増えたことを実感するのはなんといっても休日だった。なにかをしていれば時間は比較的早く過ぎていったが、なにもしていなければ時間は無尽蔵にあるようにしか思えなかった。なにもしなければ休日は永遠だった。そういうときのアパートの部屋は本当に静かで、外を走る車の音や少年少女の金切り声は遥か遠くにあるかのように聞こえた。なにもしないでいる固着した時間を、なにかをすることで少しずつ前に進めた。そうしなければ縦郎の細かいところにまで埃が降り積もって、やがてどんなにブラシで擦っても取れなくなってしまいそうだった。
 当初は不慣れで時間のかかった家事も、慣れてくれば手際がよくなり時間が短縮されていく。ごはん粒のくっつかないしゃもじや埃をあれよあれよと吸着するモップなど、便利な日用品を買い足すことによって時短はさらに進化を遂げた。できる家事がなくなってしまうと、もっぱらテレビとインターネットを眺めて過ごした。受動的でいられることがよかった。インターネットを使って情報を発信したり、人々と交流したりすることは一切しなかった。インプットと同時にアウトプットの大切さを説く言説をインターネットで見かけたこともあったが、縦郎には自分自身以外になにかを伝えたい相手というのがなかったので、考えたことをわざわざ可視化する必要がなかった。テレビにもインターネットにも、縦郎が一生かかっても消費することのできない量のコンテンツが既に溢れており、それは地球上には地球を何万回も破壊できるだけの兵器があるという、昔社会科で習ったコネタのことを思い出させた。
 コンテンツの中ではスポーツ観戦が好きだった。どんな競技もルールがわからないなりに楽しみ、ルールがわかってきたらそれはそれでさらに楽しく、雑食的にあれこれと観た。縦郎自身に特定のスポーツ経験がないことが、そのように分け隔てのない観戦姿勢をもたらした。そこに流れるコンテンツ量の多さという点で、結果的には野球を最も多く観た。野球を観るときはたいてい缶ビールを開けた。野球には、冷蔵庫に冷えた缶ビールを取りに行くタイミングがたくさんあった。
 スポーツの、すべてがそのフィールドの中で完結しているところが縦郎には心地よかった。あまりにも狭い敷地内で、あまりにも特殊なルールの下で、その場とその原理こそがユニバースであるかのようなアスリートたちの真剣な眼差し、真剣な振る舞いに縦郎は口を半開きにして見とれてしまうのだった。人が考案した設定を人が共有し、これに素直に従い、ときには殴り合いのケンカに発展するほどエキサイトしてしまうということが、縦郎の目にはすこぶる魅力的に映った。そこにすべての人間の、少なくとも縦郎のような人間の希望があるような気がしていた。一方でフィールドの外にある文脈、国や地域、街を背負った選手やチームが戦うなどのドラマには興味が湧かなかった。
 晴れの日も雨の日も、瞑想をするわけでも苦行をするわけでもなく、縦郎にとっての自然、縦郎にとって尊いひとりの時間を過ごし続けた。休日に人と会うことは、ごく稀に実家に顔を出すときと、ごくごく稀にある休日出勤のときを除いてなかった。
 縦郎に友人はいなかった。といっても胸襟を開いて話せる相手は職場にもたくさんいたし、学生時代を振り返っても決して少なくなかった。教室でのくだらない雑談、職場の給湯室での立ち話、歓送迎会や年末の忘年会は楽しかった。ただ、休日にわざわざ約束をして会い、なんらかの用事を済ませたり、用事がなくても共に時間を過ごしてぶらぶらとするようなのが友人なのだとすれば、縦郎に友人はいなかった。
 縦郎は人が嫌いではなかった。人の世の中で生きていきたいという意志は物心つく前から胸の奥深くに宿っていたし、大人になってもそれは変わらなかった。ただ、だからといって必ずしも休日を共にするような友人がいなければいけないとも思っていなかった。友人がいればいたで楽しく有意義な生活が到来するであろうことは容易に想像がついたが、友人を介して縦郎にまとわりつくものの雑多さ、理不尽さ、そしてそれらを避けながら友人との良好な関係を維持することの困難さは想像してみるまでもなかった。縦郎から友人を作ろうと行動を起こしたことは一度もなかった。もしも休日に縦郎を誘ってくれる者があれば縦郎は拒むことはなく出かけていったに違いないが、多様な大人がいる縦郎の職場には休日の縦郎を誘う者はいなかった。学生時代を共に過ごしたかつての同級生たちと会うこともなかった。縦郎の知る連絡先はもう何年も更新されておらず、それらがまだ生きた連絡先なのかどうかはわからなかった。
 同じように恋人もいなかった。縦郎に恋人がいたことは一度もなかった。己の性欲とは正面から向き合い続けてきたが、引き続き向き合い続けるだけであった。ともあれ性の営みについては、いつか一通りのことは経験することになるのだろう。そのことを時折思い出すたび、縦郎は身の引き締まる思いであった。
 一日二十四時間、七日百六十八時間、限られた時間の中でひとりでいられる時間の尊さをまっとうしているうち自然とこうなった。寂しくはなく苦でもなかった。七等分された一列が、際限なく縦に縦に縦に伸びていく。


 ある三連休初日の朝のこと、縦郎は目が覚めると、激しい腰痛のために布団から起き上がれないことに気がついた。雪でも降りそうな冷え込みの厳しい冬のはじめで、布団から出した温かい手で触れた鼻はきんきんに冷え切っていた。カーテンを開けにいくこともできず、よく晴れた日の太陽を感じる薄暗いアパートの部屋の隅っこで、生まれて初めての経験に縦郎はしばし呆然としていた。
 前兆は、ないことはなかった。腰というか尻というか背中というか、なんとなく鈍い違和感を覚えることが以前からときどきあって、その都度すぐに忘れていた。平日の業務が主にデスクワークであること、長時間座りっぱなしの職場の椅子が少し傾いた安物であること。休日にアパートでテレビとインターネットを楽しんでいるときの姿勢もよくないことが思い当たった。紛れもなく体が歪んでいるのだった。縦郎はスポーツ経験も、体をしっかり鍛えたこともなかったので筋肉の貯金もほとんどなく辛うじて肉体を支持していた基礎的な筋力も弱っているに違いない。そこにもってきて昨晩からの急激な冷え込み。縦郎の体は知らず知らずおかしな強張り方をしていたのだろう。理屈はいくらでもつけられるし、おそらくすべて概ね正しい。様々な要因が災いし、ここに結実したのだった。
 幼少期はともかく、肉体の発達がそれなりに完了して以来、縦郎は自らの体について無頓着であった。楽な姿勢がよい姿勢だといわんばかりの、あるがまま精神でやってきた。それで特にトラブルはなかったし、今だから前兆だったとわかる体のサインもほとんど気にかけず、人間そんなものだろうと納得していた。なんとなくこのままのコンディションが続いて、なんとなく長生きするんだろうと思っていた。けれど、これまでも縦郎は自分で気づいていなかっただけで、非常に危ういバランスの上で幸運にも大過なく生きてきたに過ぎなかった。ということに、薄暗い天井を見つめながら気づくに至った。
 パンツの食い込みが気になって少しだけ体をよじろうとして激痛。がらんどうの部屋に出したこともない大声が響く。睡眠中の尿意を抑制してくれていたホルモンの分泌がなくなったのがわかる。膀胱が重い。しばらく待ち、動きを試み、激痛が走る。痛みが落ち着くまで待って、体重移動を試みて激痛。何度か繰り返したところでいよいよ膀胱の圧迫をこらえられなくなってきた。
 このまま漏らすしかないのだろうか。
 だれもおらず、だれが来る予定もないアパートの部屋の布団の上で、見ている者はだれもいない。そもそも仮にだれかがいても、今この瞬間に肩を借りて起き上がってトイレに行くことも恐らく不可能だ。恥ずかしいことはなにひとつない。栓を開放されたホースから流れ出す温水はパンツとパジャマの布地のキャパシティをあっという間に超えて、敷き布団に、掛け布団に、たっぷりとしみ込むだろう。陽の入らない部屋で濡れた布団は芯から冷えて、縦郎の体をきんきんに冷やし続けるだろう。
 縦郎は目を見開いて、大きく息を吸い込んで可能な限りの血流を脳に送り込んだ。大きく息を吐き、痛みをこらえる覚悟を決めてから、右手でむんずと掛け布団をつかみ、めくった。そのままぶんと腕を振って、その反動で敷き布団から床に転がり落ちた。痛さで意識が飛びそうになるところを自分の叫び声でつなぎ止め、大きく息を吐いた。ぎりぎり手の届くところに脱ぎ捨ててあった部屋着のスウェットを引っつかんで、股間へ。パンツとパジャマからホースを引っ張り出して、丸めたスウェットに先端をあてがった。体温の放出。
 脱力した全身を引きずって、乾いたままの布団に這い戻り、気を失うように眠りに落ちた。落ちる直前、はらりと剥落したような感触があって、その瞬間にようやく僅かに微笑むことができた。
 なんとか歩けるようになった三連休の最終日、緩んだ寒さと空腹のためにゆっくりとアパートを出て、夕方の近所を散策した。気温はぐっと上がったが日の短さは進むばかりで、じんわりと沈みかけていた街に店の明かりが暖かく見えた。吸い込まれるように入った、近所なのに入ったことも存在を意識したこともなかった飲食店は、カウンターとテーブル席がいくつかの、昼は大衆食堂、夜はそのまま大衆酒場になるような店で、元々は中華料理屋だったのだろうが今となってはノンジャンルになり果てた手書きのメニューが貼り出されていた。既に常連客と思われる老人たちが酒を飲んでおり、時刻だけを見れば早い気もしたが、空気感としてはまったく自然だった。
 瓶ビールをグラスに注ぎ、揚げものと汁ものと共に、三角飲食で胃へ送り込む。しみわたるのがありありとわかる。痛みで萎縮していた体から強張りが抜けていく感じがする。常連の老人たちはやいのやいのと盛り上がっており、カウンターの中に立つ若き大将はにこやかに、しかし黙々と仕事を続け、どちらも縦郎を無視するでもなく、かといって絡んでくるでもなく、実に心地よい距離感だった。ゆるゆるとしたいのはやまやまだったが、いつもなら丸い背中で前傾姿勢になるところを、できるだけまっすぐに腰かけた姿勢を維持しようと努めた。窮屈だが、もうあんなにつらい痛みはごめんだった。喉元を過ぎ去りかけていた三連休のことを反芻し、肝に銘じた。
 いつの間にかとっぷりと暮れ、老人たちは帰宅して、テレビではプロ野球の日本一を決める試合が流れていた。どちらが勝ってもよかった。瓶ビールと汁ものを追加して、試合終了まで観てから帰途についた。
 縦郎はスポーツウェアを一揃い買って、ストレッチを毎日の日課に、ジョギングを週に数回の習慣にした。極力ハードになってしまわないよう、ソフトに、ソフトに体を動かした。どちらのときも呼吸を意識して、呼吸に集中したついでに体が動いているような感じを目指した。
 衰えていくフィジカルを衰えるままにすることを受け入れてしまうのもひとつの考え方ではあったが、縦郎はそれを拒んだ。縦郎はまだ成し遂げたとは思っていなかった。まだまだ、どんどん剥がしていかなければいけなかった。フィジカルの衰えに伴う苦痛を縦郎はまだ受け入れることができなかった。いつか受け入れるときが来るのかもしれないが、今はまだ。
 縦郎の肉体は徐々に巻き戻され、やがてそれなりのコンディションで平衡状態となった。部屋の中で、アパートの周りで、呼吸を整え続ける行為は、縦郎の思考をシンプルにしていくという副産物ももたらした。日々シンプルを心がけているとはいえどうしたって複雑になっていきがちな思考の糸が、もやもやするするほどけていったかと思えばひゅんと瞬時に一本のまっすぐな糸になる。もっと驚くべきは、複数の糸が秩序だった編み目に変貌することもある。
 それはひょっとすると、運動に起因するあくまで一時的な爽快感でしかないのかもしれなかった。だけど、たとえ刹那の幻想であっても、その実感の積み重ねしか縦郎が信じられるものはなかった。


 その夏、母校の高校の野球部が地区大会のトーナメントを順調に勝ち進んでいるというニュースを知ったのは、準決勝で劇的な勝利を収めた土曜の夜だった。大衆酒場のカウンターの定位置で冷奴をちびちびつまんでいるとき、普段は話の中身までは入ってこない常連客の老人たちの会話の中に登場した母校の名が耳に留まり、縦郎はつい耳を傾けてしまったのだった。
 地域では最も歴史の古い普通科の公立進学校である。そんな母校の歴史始まって以来の決勝進出、勝てば全国大会であるという。縦郎は愛校心の薄さを自覚しており、同窓会にも出たことがない身だったが、そこまで珍しい事態だということを知ると少し興味が湧いてきた。
 その老人もまた、母校の躍進に興奮していた。老人は、かつては生徒として在籍、さらには後に教諭として長く勤務していたらしかった。縦郎の記憶に老人の姿はなかったが、そもそも当時、全員の教諭を把握していたわけではなかったから、もしかすると縦郎と老人は高校の廊下ですれ違ったことがあったのかもしれない。なかったのかもしれない。
 決勝戦は明日、日曜の昼だという。老人は球場に観戦に行くと息巻いている。老人の相手をしている老人は、大きく同調する相槌は打ちながらも球場への誘い自体はやんわりと受け流している。
 野球は好きなコンテンツだったが、観るのはもっぱらプロ野球かアメリカの野球で、高校野球はそれほどでもなかった。真夏の休日の昼間、なんとなくテレビをつけて眺めることはあっても、それほど熱が入ることがなかったのは、本来フィールドの外にあるはずの教育的な文脈が持ち込まれがちなところが縦郎にはどうも興ざめだからだった。
 だから翌日の昼前、わざわざ地下鉄を乗り継いで球場へ足を運んだ自分に、縦郎はちょっと驚いていた。
 初めて訪れた球場は想像していたよりも小綺麗だった。古いのだろうが丁寧に使われ続けてきたことが設備のあちこちから感じられた。そう広くはないエントランス、観客席へ至る通路には、想像していたよりもずっと大勢の観客がごった返していた。観客席は満員だった。縦郎は、生でスポーツ観戦をするのが初めてだった。どんな競技もテレビやインターネットを通じての観戦しか経験がなかったので、試合開始前の競技場独特の昂揚した雰囲気は新鮮だった。
 相手は全国大会常連の強豪である。応援団、チアリーディングはもちろん、その他大勢の生徒たちも慣れた感じで、統制の取れた応援態勢が見て取れた。
 一方、縦郎の母校サイドはなんといっても史上初の出来事である。そのお祭りムードたるや、本当のお祭りよりもお祭りだった。受験勉強を忘れられるひとときに浮き足立った在校生。そして、その何倍もの人数の卒業生。その中にはいわゆる地方の名士というか、政財官のよきところに収まっている卒業生たちも少なくないはずだ。彼らは母校が全国大会に出ることが決まった暁には多額の寄付をしたくてたまらないという顔をしているに違いない。酒場の老人のような大先輩から、この前まで通っていたに違いない大学生のような大後輩。そして、かつての同級生たちが、真夏まであと一歩と迫る太陽の下で一堂に会していた。
 母校は試合開始直後に一点を失ったが、続くピンチをなんとか断ち切り一点を失うにとどまった。母校の攻撃もなかなかだったが、相手の守備に阻まれた。お互いにチャンスは作るのだが、なかなか得点にまでは至らない。時折ファインプレーが飛び出て、観客席の歓声が溜息に、悲鳴が歓声に変わり、スコアボードにゼロが並んだ。くだらないミスや怠慢なプレーのかけらもない、引き締まったいい試合だと縦郎は思った。選手たちが集中しているのが観ているこちらにまで伝わってきて、縦郎はぐいぐいとのめり込んでいった。
 選手たちには観客席の声援や、どよめきや、声にならない声までもが届いているだろう。届いているし、しっかり受け取ってもいるだろう。けれど、それと選手たちとは究極的に清々しいほどに無関係だった。彼らはフィールドの中で、そこでのみ通じるルールの下で、今この瞬間をめいっぱい燃やしていた。そこだけが彼らのユニバースだった。そのことが縦郎にとってたまらなく尊く、たまらなく痛快だった。
 観客席の縦郎に話しかけてくる者はだれもいなかったが、縦郎からは何人か、記憶の中の同級生と印象が合致する顔を見つけることができた。ひとりだったり、同級生同士だったり、それぞれの家族連れだったりと様々だったが、彼らは一様に縦郎の想像以上に歳を取っていた。深く刻まれた皺は強い陽光で色濃く強調され、男に関していえば程度の差こそあれ頭髪が薄くなっている者も少なくなかった。痩せる者は過度に痩せ、肥える者は過度に肥えていた。息の詰まる試合内容とは裏腹に、まるで受験勉強を忘れる在校生のように、彼らもまた浮世の苦労を忘れてつかの間の息継ぎをしているかのような表情をして背中を丸め、声を嗄らしていた。彼らにはそれをするよりほかに選択肢がないように見えた。
 昼下がりの陽光を浴びながら球場は加熱する。フィールドで躍動する選手たちは紛れもなく高校生で、紛れもなく縦郎がかつて通過した年齢だった。彼らを取り囲む在校生と卒業生、卒業生の中でも若い者と老いた者。そこに横たわる時間の層の狭間に縦郎はいた。みな、応援のためのメガホンや、汗を拭うためのタオルや、陽射しをよけるための帽子や、水分を補給するための水筒や、挨拶するための名刺や、そのほかいろいろなものを持っていた。縦郎だけが手ぶらだった。喉をからからにして、背筋を伸ばして座っていた。金属バットの甲高い音と、割れんばかりのお祭り騒ぎ。今まで目に見えなかった透明な糸が観客席から無数に伸びて、絡み合いながら繭のようにフィールドを覆う。ひときわ美しいかつてのだれかのマドンナの胸に抱かれた赤ん坊は、悟りきっているかのような顔でユニバースを見つめている。


 わざと人の波に呑まれるようにして球場から地下鉄の駅へ、駅のホームへ、車両の中へ。乗り継ぎ駅で改札を出て、地上に出た。人がごった返す中を縦郎は出鱈目に歩いた。なにも考えずに歩いた。なにも考えていないはずなのに脳が熱を発しているような気がしてならなかった。手を大きく開いて大きく振り、大股に、できるだけ風を切って放熱できるように歩いた。歓楽街へ向かおうという発想が繰り返し頭をよぎったが、足はどうしてもそちらに向かなかった。
 疲労困憊で乗り継ぎ駅に戻ってきて、直結の百貨店の地下に入った。食品と菓子のフロアをぐるぐると歩いて座れる場所を探したが、すべての椅子はぎらついた老人たちに占められていた。縦郎は一歩も歩けなくなり、立ち止まった。目の前のガラスケースの中にはケーキがあった。カットもあったがホールもあった。美味しそうなコスチュームの若い娘が縦郎に微笑む。縦郎はケーキを買った。カットではなくホールで買った。ホールのケーキを自分で買うのは初めての経験だった。日焼けした頬のために酔客と間違われたかもしれなかったがそれは縦郎にとってむしろ好都合だった。
 紙箱の水平を保ちながら地下鉄に乗り、いつまでも沈むことのなさそうな夕暮れの中を帰った。勝手知ったるいつもの道の最短距離を歩いたはずなのに、気が遠くなるほどの時間がかかったような気がして、アパートに着く頃には既にとっぷりと暮れていた。日中の余韻を引きずる部屋は蒸し暑く、窓を開ける前に汗がじゅわじゅわと浮かんで、贅肉の落ちた背と腹を流れ落ちた。冷蔵庫を開け、缶ビールを開け、喉に機械的に流し込んだ。しみわたる。のがわかる。ぽうっとして、やさしい顔になる。
 正円のホールケーキを箱から出して、四角いテーブルの中央に置く。生クリームの白いケーキに、真っ赤な苺と、チョコレートのプレートが飾られている。自分の名前が書き記されたプレートを、背筋をまっすぐにして見つめる。今日が縦郎の誕生日である。縦郎が自分で決めた、記念すべき初めての誕生日。
 火を点ける。電灯を消す。歌う。n本の蝋燭を吹き消す。

〈了〉

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