ずっと母が嫌いだった 終

 前のテキストでは、向き合わないといけない、一度きちんと見詰めなければいけない、自分が被った児童レイプの被害について、やっと、告白することができた。しかしどなたでもどうぞ、知ってください、という気持ちには未だなれず、匿名で、有料にした。言うなれば簡単な鍵を掛けたようなスタイルだ。しかし、それでも短いものしか書けなかった。詳細に覚えているがその全てを書くと、官能小説のようになってしまうだろう。あの短いものでも心はかなりしんどく、限界だった。

ただしんどくとも、被害児童は自ら訴え出ることができない、ということを告白したくもあった。

 このできごとは残酷な低温やけどのようだ、と思う。心をじわじわと壊死させ、それは決して治らない。そしてまたレイプは魂の殺人、と喩えられるのもわかる。ああ、書きながら涙が溢れてくる。そう、私は、この件で涙を流したことがない。今やっとわかる、悲しく辛かったのだ、と。

 このできごとを、私は無意識に封じ込めた。そうしなければ生きることができなかったのだろう。

 接骨院でのレイプは、母が「そろそろ指、治ったでしょう。お金が勿体ないからもう行かなくていいわよ」というまで重ねられた。そう、母は、救ってくれたのではなく、自分の気まぐれでことを終わらせただけだ。この間、母は一度も私を心配することはなかった。帰宅が不自然に遅くとも迎えに来ることもなく、帰宅の遅い私のことを、叱るだけだった。そして叱られると委縮しますます何も言えなくなり「されていることがばれたら余計に怒られる」と考えてしまった。

 そして私は口を噤んだ。誰にも何も言えずに、中学生になった。

中学生の頃癇癪を起した母に、味噌汁の入ったお椀を投げつけられたことがある。そして母は言い放った。

「拭きなさい」

私は訳も分からずに這いつくばって、続けて投げつけられた雑巾で床を拭いた。そしてその様子を見ながら、可愛がっている妹の長い髪の毛を、三つ編みに編むのだった。

私は、母にとっては「小さな頃からずっとブスな子ども」で、髪の毛を梳かしてもらったことはなく、小学生の頃からずっと同じおかっぱ頭でいた。味噌汁を掛けられた中学生のときにも。

母への怒りは、こうして、少しずつ積み重なっていく。

結婚し、私にも娘が生まれた。幸い夫に似て可愛らしい子どもで、おばあちゃんになった母も上機嫌であった。私の娘へも、母は「あなたのお母さんは小さい頃すごくブスで、頭もあまりよくなかったのよ。妹のゆきちゃんのほうがずっときれいで頭も良くて」と言う。

自分自身が母親になったからなのだろうか。この頃から私は、母への服従心のようなものが少し薄れてきているのを感じていた。あるいは、抑え込んできた怒りが、閉じ込めきれずに漏れ始めていたのかも知れない。

「いい加減にして。私の娘にそんなことを言うならもう会わせない」

母に、何とか言うことができた。母は、驚きながらも「わかった」と答え、それ以来、言わなくなった。

妹と比べられ、差別を受けながら育った私は、複数の子どもを産みたいと思えなかった。幸いなことに娘のことはとても愛おしかった。むしろ、自分と同じ被害に遭うかもしれない、と考えるだけで恐ろしく怖く、束縛傾向にある、と思う。夫はそんな私に呆れているが、理由はもちろん話せないし、きっとこれからも打ち明けることはない。

母にとってはブスでどうしようもない娘だったのだろうが、実は、性的被害の加害者は一人ではない。もう一人は隣家に住んでいた一家の息子である。引っ越して間がなかったある日、友達になれそうなクラスメイトの家に一人で向かおうと思い、道を歩いていた。田舎の人気のない道だ。多分、後をつけられていたのだろう。声を掛けられ、予め調べておいたらしい、人目の届かない叢に連れ込まれた。その時に身体に触れられ、彼の陰部を握らされた。幸いに、そのときは挿入されるようなことはなかった。さらに幸いなことに、それから間もなく隣人一家は引っ越していき、いなくなった。この時にも、母は小学一年生だった私を、心配することはなかった。

母のことがずっと、ずっと、嫌いだった。

嫌いという名の感情が入った、心という器に、ずっと栓をして生きてきた。

感情は熟成されプクプクと泡立つようになり、じわじわ漏れ始めていた。そこに、栓を押さえ、何とか気持ちを支えてくれていた「父」という存在が亡くなった。

栓は、弾けて飛んだ。もう、見付けられない。

私の中で、幼い私を汚した男は、母と同化し、憎しみの対象となっている。

自分の心に向き合った今、母を憎んでいるということを認める。

そう、私は「母のことがずっと嫌いだった」。

今は、憎んでいるのだ。

                                 了




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?