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ずっと母が嫌いだった 5

(自筆証書遺言の開封編) 

 父が亡くなり、その亡骸は病理解剖された。死因は脊髄梗塞だろう、という診断を下されていたが非常に稀な病気だったため、研究材料とされたのだ。解剖が終わり、父を引き取りに出向いたときには、血の滲む頭部の傷に、怒りを覚えた。父を助けてくれなかった上に、こんな大きな傷まで作って、と。

父の葬儀には定年後の父が情熱をもって活動していた、歩こう会の面々が協力してくれた。会社員時代は生涯平社員だった父だが、この会では代表を務め、大きな顔をし振舞っていた。毎月の会報発行や、大会運営、ウォーキングのコース作りと、それはもう、精力的に動いていた。まめに写真を撮ってはきちんとファイルにまとめていたおかげで、遺影や葬儀でのスライドショーの写真選びにも苦労しなかった。まだコロナウィルスの影は薄く、多くの方の列席を賜った。列席者の中に、会社員時代の関わりの方が一人もいなかったのは、現役だった頃の父の孤独が見えたように思う。

父の葬儀と納骨が終わり、遺言書を実効性のあるものにしなくてはいけない。私はケアマネジャーの仕事のひとつとして終活も学んでいたので、裁判所での正式な手続きが必要だということを知っていた。このため検認を申し立てるに当たり、各種の行政書類を集めるために、少々苦労をした。父がかつて朝鮮引き上げ児童だったからだ。

ともあれ、申し立ては終わり裁判所から相続人に対し、開封立ち合いの呼び出し状が送付された。しかし、全員が遺言書の内容を知っていたことから私以外は欠席し、相続執行人として指名されており保管もしていた私のみが出向いたのだった。

裁判所での検認手続きも無事に終わり、自筆証書遺言は裁判所も認める正式なものとなった。

だが、このあとで問題が発覚した。

自宅土地が、一筆ではなかったのだ。

私も父も、誰もがうっかりしていたのだが、隣人が引っ越した際に隣地だった小さい土地を、その土地の向こう側に住んでいる方と、半分ずつ購入したのであった。父はその土地に小さな家庭菜園を作り、野菜作りを楽しんでいたものである。その土地が合筆されていなかったのだ。

子三人のグループライン上で話し合い、名義変更の際に、土地を合筆しよう、ということになった。そしてこのときに、父の遺言とは異なるけれども、母の持ち分を多くしよう、ということにもなった。父の遺言では遺産は母と子ども三人、均等に、ということではあるけれど、遺産を独り占めしたかった母は、納得できないだろう、と。

きっと、父も許してくれるだろう、と。

ところが、母は、納得しなかった。

「あなたがお父さんを洗脳し、そそのかして遺言書かせたのでしょう!性根が腐っている!」

私に対し、物凄い勢いで攻撃を始めたのである。

つづく

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