見出し画像

ずっと母が嫌いだった 3

 父がまだ元気だった頃、実家を二世帯住宅にして一緒に住まないか、と持ち掛けられたことがある。私達夫婦の一人娘はまだ幼く、保育園に通い始めた頃だ。

私が専業主婦で娘にかかりっきりになっていた時、夫が入院した。腫瘍である。夫の退院後すぐ、私はパートの仕事を始めた。

幸い術後の経過はとても良かったが、何しろガンである。今後何がどう転ぶかわからない。心配した父からの、一緒に住まないかという申し出であった。

父にとって三世代が共に暮らす、というのは高卒で働き始めた頃からの夢でもあった。一切の贅沢をせず、コツコツ貯めたお金でローンなく家を買い、その後にお見合い結婚し、それからも節約を怠らず、会社で早期退職を促されるような年齢になってもしがみつき最後まで勤め上げ、二世帯住宅を建てるにあたっては

「こちらの分の建設費は即金で支払う。そして土地の名義は譲る」

こんな好条件まで提示してくれた。

「持ちつ持たれつ、孫の世話をさせてもらい、老いては世話をしてもらう。これが私の理想の家族スタイル。このためのお金は惜しまない」

夫も、戸惑いながらも自身の病気に端を発した話でもあり、申し出を受け入れた。こうして、二世帯住宅構想は建設会社も巻き込み動き始めたのだった。

ところが、ほどなくし、母はそれをひっくり返した。

「やっぱり、やめたいの」

なんだかんだと理由を述べていたが、一番の理由は、建設費を出すと、貯蓄がほぼなくなってしまう、ということに気付いたからであろう。浪費癖がついていた母にとって、それは我慢できないことだったはずだ。

母の意見に、迷っていた我が夫も乗った。こちらは自身の母に「婿にやったんではないのに」と泣かれた、という。夫は夫で、私の母の反対は、渡りに船となったようである。

こうして、父の悲願であった二世帯住宅構想は、その後二度と持ち上がることはなくなった。その後の母の浪費ぶりはすさまじく、建設費を出すどころではなくなったのである。私達夫婦も元々自宅マンションのローンがあり、二世帯住宅の建設費を引き受けられる余地はなかった。

父は、父にとっては千載一遇だったチャンスを失ったことをずっと悔やみ、そしてひっくり返した母を恨んでいた。それを私に繰り返し話すのだった。きっと本当は、私から「一緒に住もう。あの土地に家を建てて」と言い出して欲しかったのだと思う。昔の人なので土地に執着していた。病床にあっても最期まで家と土地にこだわっていた。父にとっての全てが詰まっていたのだろうか。

母の浪費がどのようなものか、わかりやすい例がある。

父と次女が南米大陸を二人で旅した時期があった。バックパッカーよろしく貧乏旅である。おおよそ八か月間。二人で旅費を80万円ほど使ったという。母はこの間一人暮らしで気ままに過ごしていた。帰国し銀行残高を確認した父は、びっくりしたそうである。200万円使われていたという。いつも家族の残飯を与えられていた飼い犬はやせ細り、その有様を気の毒に思った近所の人から、餌を与えられることもあったそうだ、とも聞いた。

話が行ったり来たりするが、こんな母なので父が亡くなったとき、預けられていた家のお金は500万円もなかったろう、と推測する。父は一部上場の会社で高卒から定年まで勤め上げたので、平社員だったとはいえ、退職金はたっぷりもらったはずだ。それが、残金500万円足らず。いかに母が浪費していたか。父は生前、年金から小遣いを一切受け取らなったという。父の年金も母は自由に使っていた上に、退職金を取り崩していた。

このような母なので父亡き後、お金には苦労するだろうと思い、私達子どもは父の遺産のうち、現金については放棄した。父は母の性格をよくよくわかっていたようで、自分がこつこつ貯めた小遣いは、母には預けていなかった。信託やら株やら運用していたものを病気を覚ったときに現金化しており、それは2000万円ほどあった。この他に死亡保険金が入る。自宅もそのまま住めばよい。常識的な生活を続けていれば、現在77才の母は、死ぬまでお金に窮することはないだろう、と思っている。

二世帯住宅の話が立ち消えたことは、父には本当に申し訳なかった、と今でも悔やむ。だが、私にとってはきっと、良かったのだとも思う。

母のことが、嫌いだからだ。

父の面倒や世話は、疲れて文句言うことはあっても、きっと最期までできたと思う。けれど、母は無理である。

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?