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SNSも物も断捨離に変わりない

SNSの見直しの話を2月に書き

さらにSNSの整理する話を3月に書きましたが

少しずつ片づける~ではちっとも片づかず、やっぱりSNSに振り回されている私。でもそう感じていること自体も大事なのかも!と思いつつ、3ヶ月目の現状や気づきについて、今回は書きたいと思います。

私がやりたいことは
SNSの断捨離だと気づいた!

突然ですが、私がやろうとしていることは、SNSの断捨離なんだな!とやっと気づきました。自分のこととなると鈍感で、本当に嫌気がさしますが、3ヶ月目にして気づいた真実です(笑)

物を断捨離する場合、なかなか捨てる決心がつかないのは、①思い出 ②もったいない ③まだ使い途があるんじゃないか …という気持ちがあるからかな?と思うのですが、SNSの断捨離も似たような感情がつきまといます。

1つ1つじっくり見てしまうと、①~③の思いがもやもやと心や頭に広がって、捨てるに捨てられなくなる。…というのが、断捨離の難しい点です。

SNSにもそれと似たような感覚があります。

物の断捨離よりも難しいな!と思うのは、SNSは対AIとも違い、生きている人が相手だということかもしれません。

そんなことを感じてきた時に、新たな疑問がうまれてきました。私はそもそも何でSNSをやっているんだろう?という疑問です。

なぜSNSをやっているのか
考えてみることにした

山の中に1人で暮らしている訳でも、宇宙にポツーンと1人でいる訳でもないのに、なんで私はネット上で人とやり取りしているんだろう…?

そもそも私のSNS歴は凄く長いです。でも思い出してみると、趣味で楽しくはじまったのとは違います。いわゆる「社会との断絶による孤独」というものがきっかけでした。

〈孤独の第1期〉
仕事をやめたことによる、社会との断絶を恐怖に感じはじめた第1期。1人目の子どもを妊娠したあたり。

〈孤独の第2期〉
学生時代や独身時代とは違い、時間もお金も不自由になって、友人ともほとんど会えなくなった第2期。2人目の子どもが生まれたあたり。

〈孤独の第3期〉
社会との完全な断絶を感じて、本当に孤独な日々だった第3期。子育てと貧乏による引きこもりのあたり。

〈孤独の第4期〉
子どもの通園や通学で外に出るようになったものの、会うのはあくまでも子ども関連の人ばかり。やっぱり社会との断絶を感じ続けた第4期。いわゆる「◯◯ちゃんのママ」「△△さんの奥さん」でしかなかったあたり。

〈孤独の第5期〉
第4期からそのまま、がん発覚。入院一切なく抗がん剤治療したことで、がん仲間が皆無。孤独な闘病だった第5期。

〈孤独の第6期〉
PTAで委員長やら代表やらをやり続けて、周囲に人はいるのに、すっかり孤独になった第6期。いわゆる「社長はいつでも孤独なもの」に似た状態。これ以降、本の活動などを経て現在に至る。

断絶されているという不安や嫌悪、孤独から脱したくてSNSをはじめて、続けてきたことに、間違いはなさそうです。SNSの恩恵はとても受けてきたと思います。

会ったことはないけどSNS上での繋がりは長い人、リアルな友人や知り合いだけどなかなか会えない人、そして全く知らない人にも、その時々で本当に支えてもらいました。

SNS上で孤独のままならば
より一層孤独感は深まる

今までのことを踏まえて考えると、私がSNSを使う意味としては、孤独からの脱却や、社会との繋がりのためだといえると思います。記録的な意味合いだけならば、外に晒さない日記や愚痴ノート(?)、アルバム的なもので十分ですから。でもそちらを選ばなかった。

それに気づき、これまでにやってきたSNSのことを振り返ってみると、コメント的なもののやり取りや、いいね的なもののやり取りが一定期間ないものは、簡単にやめたり、データを移設したりしています。

SNS上の孤独は、孤独感を一層感じるからです。

孤独からの脱却でSNSをやって、そこで孤独だったら意味がない。いや、それはより一層孤独を感じることになります。

そうなるとSNSという手段を諦めるか、これでもダメか?!とばかりに、各種SNSに手を出していくことになります。私は完全に後者で、各種SNSに手を出していったタイプです。

私の場合はそれにプラスして、自分がやっている地域活動や、スズメベースの集客問題や報告的なこともあったので、個人としてやっているだけでは済まず~ということで、気づいた時にはSNSでがんじがらめになっている状況でした。

断捨離というものは
物もSNSも大差はない

断捨離本なんて読まなくても、誰かの何かを聞かなくても、自分の衰えを感じたことで、断捨離をはじめました。歳を取るってこういうことなのか!と、だいぶ経ってから思いました。

体力や能力が段々と低下してきて、雑多なことを処理する力やスピードが落ちてくるんです。そうなると、物を少なくしておいた方が生活しやすいし、物を減らすのには体力を使うので、少しでも元気な時にやっておいた方がいい!という思いが、ある日自然と涌いて出てきました。

これからを生きる中で、今日の自分が1番若い。

本当にそうです。元気な時には考えもしなかったことだけど、本当にそうだ!と今は思います。

処理能力の低下は、ネット関連のことも例外ではありません。脳、視力、手、各所の痛み…などに関連して、確実に低下します。人間は多少の負荷は伸びに繋がるけど、荷重が過ぎるとストレスが過多になって悪影響に転ずる…。

物も減らし過ぎたらかえって暮らしづらくなるし、ちょうどいい具合に断捨離することが大事。と考えると、SNSもそうなんだろうなと思いました。

SNSとリアルな関係の
ちょうどいいを考えてみる

そもそも私は子育てが終わり、独身の頃と同じではないにしても、自由な時間が増えました。いや、仕事をしていないことを考えると、独身の時よりも自由な点も多いはずでした。

なぜ「はず」というのか…。それはスズメベースのことがあったからです。

お金を産み出すどころかずっと払い続け、「開けなければ」に縛られ、悪い評判が流れないように気を張り続け、SNSにもがんじがらめになってしまった私とスズメベース。思えばずっと不自由でした。

去年の秋からスズメベースのやり方や、関わり方を変えたことで、やっと趣味の範囲にすることができて、自由な時間が増えました。思えばこれも私の断捨離だったですね。さっき気づきました(笑)

物を断捨離する時に渦巻く感情は、物だけではなく、SNSや人、そして活動でも同じなのかもしれません。

他の人には必要なものでも、私に必要だとは限らない。

必要か必要じゃないかの判断は、今の自分のことがわかっていないとちゃんとできないし、疲れてくると適当になるので、ちょうどよく元気な時にするのがいい。私にとって今がやり時だったんでしょうね。

自由な時間が増えた分、私はリアルな世界で生きればよくなりました。会いたい友だちと実際に会って話したり、1人で行きたい場所に行ったり、家のことを思う存分やったり。

たぶんSNSの必要性が変化しているのに、むきになってSNSをやっている自分がいるから、苦痛に感じてきたのだと思います。気にしすぎる点も災っているのかもしれません。

最後に…。

Googleで検索するのではなく、SNSで検索する時代になっている今、SNSは私にとっても情報収集に必要なツールです。

私には今でいうところの推し活の趣味もあるし、以前も書きましたが地震の速報はいつもTwitterですから、SNSを完全にやめるつもりなんてありません。文章を書くことや表現することも好きですし。

ただ、画面を見続ける日々を送るのは嫌だし、SNSに振り回される暮らしをつづけるのは嫌です。SNSよりも人と実際に会いたいし、どこかへ行きたいし、物づくりもしたい。

今、物の断捨離もしていますが、それと一緒にSNSの断捨離も進めようと思っています。物と同じで、置き場所を変えただけでは片づきはするけど減らない…ということに、気をつけなければ!と思っています。

結局のところ何事も、自分のことをよく知ること、そして情報過多な世の中で、自分に必要な情報を選ぶこと…が大切なのかもしれません。

ちょうどよくが難しいですね。

東京三鷹生まれの三鷹育ち。自分の居場所を求めて富良野、京都、東京多摩地区を転々としたのち三鷹に戻り、以降ずっと三鷹に在住。2016年2月、本好きと、長く続いた居場所探しの経験を活かし、地元でゆるい感覚のまちライブラリーをスタート。ひっそり人好き。地域クリエイター。