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身体にのこる情報、すりぬけてしまう情報


夫の実家に帰省の間、4日間。まったく、まったくと言っていいほどほとんどwebというものに触れない生活でした。使ったのはLINEで夫やお姉さんと連絡を取る時くらい。

「よーし、これを期にデジタルデトックスとやらをやってみよう」なんて思ったわけでもなく、ただ単純に画面を見るような隙間がなかったのだ。じゃあ何を見ていたかというと、圧倒的にこども。こどもこどもこども。そう、3人のこどもたち。


2歳(しゃべらない)・2歳(ものすごくしゃべる、でも時々意味がわからない)・6歳(大人顔負けにしゃべる)というバラバラな3人なのに、3人も集まるとどうしてこうもにぎやかになるのでしょうね。しゃべらない2歳だって、泣いたり笑ったりわめいたりで立派に自分の意見を伝えてくる。3人の興味の矢印がひとつに揃ったり、てんでばらばらに飛んで行ったり(つまりはいろんな方向にこどもが散る)、それはそれは忙しい4日間でした。

この3人が巻き起こすいろいろに対応していくと、大人がたくさんいても、もう疲労困憊(笑)はるくんも遊びつかれて疲労困憊(笑)つまりは帰ってきてからうちの家族はぐったりなのです。


普段スマホやらパソコンやらに触れていると、いろいろな情報が入ってくる。1日だけでもかなりの情報量になるだろうな。webを見なかったこの4日間、世間で何が起きていたかもわからないし、ひっこしに備えてあれこれ調べることもできなかった。なにひとつ、新しい情報を知ることはなかった。

でもねぇ、なんというか、この「めいっぱい人間を相手した感じ」。いつも画面を見て得た情報量よりずっと、がつっと受け取った何かがあるような感じがしてる。


画面を見て得た情報は、確かに量としては多い。量というより、数としてって感じかな。でも、めいっぱい人間を相手にして受け取った「何か」。それはこれを知った、あれを知ったと数では数えられないけれど、がつっと質量があるものをドンと受け止めたような感触があって。思い切り投げられたドッヂボールを真正面で取った時のような感じ。

その感触を感じてしまうと、いつも画面から得ていた情報には手応えがないように感じてしまう。目から見て、触れてはいるのだけれど、身体をするりと通り抜けてしまう。身体に触れた感触が残らない。あのたくさんの情報たちは果たして私の身になっているのだろうか、と思うと、まったくないとは言わないけれど下を向きたくなる気持ちがある。


こどもたちは、webからの情報に触れることはほとんどない。けれど毎日遊んで、話して、見て、聞いて、触れてみて…すべてが身体に感触の残る、身になる情報に触れているのだなぁと感心してしまった。その情報量はきっと一日中画面を見ていたって得ることのできないくらいの大きな情報量なのだろうな。


だからといってwebを手放すつもりはない。これだって大事な情報源だ。けれど、そこからひとつ、「身になる情報」になるために、こどものやり方を見習ってみようと思っている。

それは、情報に触れて「いいな」と思ったら、「やってみる」こと。実際に見てみる、聞いてみる、触れてみる、やってみるということ。きっとそうすることで、画面から得た情報が身体に感触を残して、身に残る情報に変化するだろうと思うの。架空のものが実際の形を得る、みたいに。


その反面、人間を相手にしてこの4日間でがっつりと受け取った「何か」は、まだ「何」なのか、わからない。身体に感触は残っているのだけれど、「あれは一体何だったのだろう」と、まだその正体をつかめずにいる。

こういうのは時間がかかるんだ。何年も経って、経験を重ねて「あ、あの時のはこういうことだったのか」と分かるような。その時まで、きっと言葉にならない。あーあ、noteは言葉で書くものなのにね。まぁ、そういうものもあるっていうお話、ということで。

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