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心の宝石  ブータン 山の教室

 この映画が強い魅力を持っているのは、忘れかけていた「純真な気持ち」を自分の中に甦らせてくれるからだ。舞台となった山村の自然と村人たちが光輝に溢れ、眼前のスクリーンに「かけがえのない瞬間」が映っている、と心から感じられるからだ。
  その村は、ブータンのルナナという村で、山間の険しい道を8日歩いてたどり着くような高山の村。そこに学校がある。世界で一番僻地の学校だ。監督のパオ・チョニン・ドルジはブータン生まれで写真家として国中を旅したが、この村に出会い、この学校を映画にしようと思い至る。キャストはこの村の子供と村人たち本人。ルナナの美しい自然と牛の仲間「ヤク」の飼育をして自給自足の暮らしをする彼らの澄んだ瞳は、演じて再現できるものではない。電気もよく知らず映画すら見たこともない彼らだが、自分たちを「演じる」ことに挑戦し、フィルムの中で奇跡的な輝きを放つこととなった。
 物語は、やる気のない教師ウゲンが、僻地の村に赴任を命じられる所から始まる。教師に不適格と思いオーストラリアで歌手を目指すことに決めたのだが、最後の任地がルナナとなった。そこに至る険しい道程を描くのに、すでに映画の四分の一程を要するが、村にあと2kmの地点で、56人の村人全員が勢ぞろいして出迎えに来ているのを見てウゲンは心から驚く。見ている我々も驚く。彼らがどれだけ先生を望んでいたのか。子供たちもどれだけ楽しみにしていたのか。その熱さが胸を打つ。
 そしてウゲンの日々は始まる。覚悟ができていなかった彼だが、級長の女の子ペム・ザムの純真な瞳や、子供たちが本当に授業を楽しむ姿に引き込まれ、のめり込んでいく。未知の世界を知ることは、自分の未来を創造することだと、子供たちは知っている。そして我々が忘れがちな「初心」というもの、何かを志す時の、生まれたての気持ちが子供たちに溢れているのを見る。
 良い出会いはさらに良い出会いを呼ぶ。この村は、標高が4800m、即ち富士山よりも高い場所にある。真っ青な空と頂きに囲まれたそれほど広くない草原で、村はずれにある丘から一望できる。ドルジはそこで、セドゥという娘と知り合う。彼女は村一番の歌い手で、その丘に座り、「ヤクの唄」を村に捧げているという。遠くまで通る美しい声に魅了され、彼は彼女からその唄を習うことにする。ゆっくりと心を通わせて行く二人…。恋愛とは本来、相手に対しての深いリスペクトの醸成なのだと思い至る。

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 日々は過ぎ、永遠に続くかと思われたが、「別れ」がやって来る。気づくと小麦が黄金の穂を夕日に靡かせる季節となった。冬は村を閉め、ふもとに移るのだ。「別れ」は時に残酷だ。しかし、人間の宿命でもある。この映画はそのことも我々に教えてくれる。
 子供たちとの別れ、特にペム・ザムの涙が辛いが、セドゥとの別れも辛い。セドゥとウゲンの別れのシーンは、映画として息を飲むように素晴らしい。柵に凭れて向き合う二人の2ショット。ドルジは極まりが悪いのか顔を背けている。セドゥも俯いている。二人はぎこちなく言葉を交わしているが、突然、カメラはセドゥの指先に突然アップする。彼女は左右の指先を擦り合わせ、もどかしい思いをこね回しているようだ。2ショットに戻っても、ウゲンはまだセドゥに顔を向けられない。会話も重苦しい。カメラが今度は俯いたセドゥをアップし、表情を覗こうとするが、目を伏せていてわからない。諦めて、2ショットに戻る。二人の間を風がそよぐ。カメラは、指と顔と、もう一度ずつアップする。擦り合わせる指と、秀でた額。セドゥの、ウゲンを想う真っ直ぐな気持ちと、それを抑えようとする逡巡を、手の届きそうなほどそこに感じる。
 そうして、ウゲンのルナナでの日々は終わった。人は誰しも「美しい思い出」を幾つか持っている。この映画はまるで自分の事のように心の中に残る。ペム・ザムの瞳、セドゥの声、村人たちの心根、高山の強い光と風、ヤクの巨躯・・・。様々のシーンたちが、思い出す度に自分を浄化してくれる「心の宝石」となるに違いない。

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