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「救世主になったつもりで馬鹿じゃねーの」と言われたけれど、ずっと負け組だった誰かの救世主になれるのなら馬鹿でいいよ引っ込んでろ。

「それになれなかった人たち同士で馴れ合って、救世主にでもなったつもり?馬鹿じゃないの?」
…みたいなことを、空リプで言われたことがある。

弱い者、負けた者、認められなかった者同士で傷を舐め合っているのはダサいんだって。



知らねーよそんなこと。



傷付いたものの傷を舐めてあげる人が1人は必要なんだよ。確かに世の中の全員で傷を舐め合う必要は無いけれど、どこかの誰かにとって、傷を舐めてくれるたった1人の人が必要なんだよ。お前は必要じゃなくても、"あの人"には必要なんだよ。感染症を恐れずに他人の傷を舐める優しさや血の味の不味さを知らない奴に、「傷の舐め合いすんな」とか言われたくない。他人の傷を舐めることは惨めじゃない。誰かがやらなきゃ"あの人"は救われないんだ。

負け組にも種類があると思っている。
頑張ることをしないで、負けるべくして負けている人。
頑張っているのに、運だったりタイミングだったりで報われなかった人。
この2つは、同じ"負け"でも別物だ。

私は後者のパターンになることが多い人生だった。努力していないわけじゃないはずなのに最後の最後に運が無くてハズレを引いたり、「悪くないんだけど別に今は君は必要じゃないかな」という評価を受けたり。

そんな経験をする度に、「努力は必ず報われる」という言葉が憎くなる。

嘘じゃないか。

こんなこと言いたくないけど、報われない努力だってあるよ。だって努力で全ての勝利が掴み取れるのなら誰だって簡単に勝者になれているはずだ。だけど私はずっと、傷だらけの敗者である。

だから私は人より、敗者の気持ちに共感しやすい。

勝者を見ると敗者の気持ちの方に心が動いてしまう。悔しいだろうな、悲しいだろうな、この後どうなっちゃうのかな、ひねくれちゃうんじゃないかな、妬んじゃうんじゃないかな、いやそんなことないか、私じゃあるまいし…。

私が負けている時、私はいつも1人だった。自分の身体についた傷を自分で舐めるのは辛かった。自分では舐めることのできない背中の傷は、綺麗に治らないまま傷跡になって汚く残っている。

そんな私だからこそ、悲しき負け組たちの気持ちが分かる。私じゃないと分からない。ずっと勝ち続きだったやつには分からない。

「負け組同士で傷の舐め合いして救世主になったつもり?」「馬鹿じゃねーの?」って言ってくる人がいるけれど、どんなに頑張ってもいろんな悲しい条件が重なって負け組にしかなれなかった人生の人だっているし、そういう人たちへの救いになるのなら私は馬鹿みたいでいいよ。

人の傷を舐めてあげることもできないお前は引っ込んでろ。

自分の書いた言葉を本にするのがずっと夢です。