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源氏物語ー融和抄ー標野の光

 近年、人気の映画、ドラマやアニメに出てくる場所を“聖地”と崇めて訪れる旅が流行したりしています。それらのファンにとっては心のオアシス的に重要な場所になるのでしょう。私が、神社や寺院などを参拝する時には、信仰対象としての聖地という意味合いの他に、歴史的事実のあった場所として見る向きもありますので、展開しているのが、二次元なのか三次元なのかの違いだけで、本質的には同じなのだと思います。

 しかしその聖地巡礼ブーム、実は昨今始まったことではありません。

 『源氏物語』はモデルとなった人物こそあれど、架空の物語。その登場人物である夕顔も、モデルはいたかもしれませんが架空の人物です。
 けれども京都市下京区五条には、夕顔のお墓があり、夕顔町という地名があります。調べてみると、江戸時代の『源氏物語』ブーム再来の時、その頃の夕顔のファンが建てたもののようです。石碑が道端にありますが、お墓は民家の中にあるということで、お詣りはできません。町名は何度かの変遷の後復活し、今に至るようです。
 聖地巡礼の先駆けどころか、異次元を歩んでいるような気がしてきます。

 この「夕顔」の次の「若紫」の段で、光源氏は「わらわやみ」にかかり、発熱を繰り返します。加持祈祷等の効果も得られない為、人の勧めにより「北山」へ赴きます。前年にも同じ流行り病があり、唯一この北山に住む聖の加持が効いたからです。この頃の流行り病は、研究によりマラリアであろうとみられています。

 『伊勢物語』第四十一段。ある姉妹が、一人は高貴な男のところへ、一人は身分の低い男のところへ嫁いでいきます。身分の低い男の家は貧乏で、十二月の末、女は夫の袍(ほう)という正装の上衣を自分で洗って張りました。張るとは着物をほどいて布にして糊付けし、板などに張り付ける作業をいいます。新年の出仕の為に、清潔でキチンと糊付けされたものを用意しようとしたのでしょう。ところが、そのような下女のする仕事に慣れていなかった為に肩を破いてしまい、どうしたらよいのか途方に暮れ、ただ泣くばかりでした。
 女の姉妹が嫁いだ高貴な男はこれを聞きつけ、緑色の袍に歌を添え、女の元へ届けました。当時、緑色の袍は六位の貴族が着る色でした。

 添えられた歌が以下になります。

紫の色濃き時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける

紫草の根が色濃くなる春は、草木がいっせいに芽吹き、見渡す限り緑一色で紫草と見分けがつきません。
(紫草ーいとしい妻ーと縁のある人は捨ててはおけないのです)

『伊勢物語』 坂口由美子 角川ソフィア文庫


 ここでの紫草の根の紫色の濃さは、自身の妻への愛情の深さを表しているとされ、その色が濃いことで、それほど愛する妻の妹であるあなたのことも、妻同様に分け隔てなく愛していますよと伝えているのです。
 少し理解に苦しむでしょうか。古今和歌集ではこの歌は在原業平のものと伝えていますが、そう考えると、歌の真意も分かる気がしてきます。

 愛が深ければ、生きとし生けるもの、そこに垣根などないのだ

 いかにも業平らしいと…よく知らないものの、そう思えます。
 あえて花ではなく野なる草木と、緑色を連想させるところも、風流人の心遣いといえるでしょう。
 私などは何でも深読みする癖があるので、暮れの寒さの中、夫の為に慣れない洗濯をする女の健気さに心を打たれたという一面もあったのではないかと考えたりします。そういう愛の芽のほころびの一瞬も見逃さないからこそ、人の胸をうつ歌が生まれるのではないでしょうか。
 また、最上位の色とされる紫も野の草木の緑も見分けがつかないと言っているようにも捉えられそうです。一首の中に、ありとあらゆる気遣いが忍ばせてある気がします。

 いつしか業平談義になってしまいますが、続いて、こう添えられます。

武蔵野の心なるべし

『伊勢物語』 坂口由美子 角川ソフィア文庫

 『古今和歌集』に先の歌と並んで載っている歌を指しています。

紫の一本(ひともと)故に武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る

一本の紫草を愛するが故に、武蔵野の草はみな愛しい

『伊勢物語』 坂口由美子 角川ソフィア文庫

 この歌の心と同じだと書き添えられているのです。武蔵野は紫草の産地でした。

 「若紫」の巻名と幼い紫の上との出会いの場面から、『伊勢物語』を通して在原業平、そして源融が思い起こされると触れました。今回はもう少し深く読み解いてみます。

 巻名「若紫」とは、『伊勢物語』第四十一段の、女と紫草(妻)との縁を紫(ゆかり)に例えていることになぞらえて、光源氏の憧れの女性、藤壺の宮の姪である紫の上との出会いの巻をそう名付けたのだと考えられます。

 さて、療養に赴いた先の聖は北山も大分深く分け入った辺り、高い峰の深い巌に囲まれた中に住んでいました。暁のまだ暗いうちに出て、聖の作った護符を飲んで加持をうけるうちに日が上り夜が明けたとあります。
 この北山のモデルも数カ所存在します。実地検証もしていませんので確定はできませんが、記述の中に気になる箇所があります。
 紫の上等が住む家が立ち並んでいるのは、聖の住まう場所からみると折れ曲がった坂道の下、という描写があります。これを読んでいると、ふと鞍馬寺へ登る坂道を思い起こしました。清少納言も「くらまのつづらおり」と取り上げていますし、折れ曲がった坂道が形容するものは鞍馬寺の表参道だったとも考えられます。

 加持が効いたのか、暮れかかる頃になっても熱が出ない為、従者は帰るように勧めますが、聖が物の怪の影響もありそうだから、一晩ここで過ごして明日帰るようにと言うので、それに従うことにします。
 その後、紫の上が住んでいる某の僧都のところへ行き、諸々の事情を聞き、なんとか紫の上を引き取りたい旨を伝えることに成功するのでした。
 光源氏が紫の上の祖母である尼君に送ったのが次の歌です。

夕まぐれほのかに花の色をみて今朝は霞の立ちぞわづらふ

夕暮れにほのかに花の色をみて、今朝は立ち去りかねております

『源氏物語』巻一 円地文子 新潮文庫

 尼君の返事は、しばらく様子をみましょうというものでした。
 そして行を空けず、光源氏が帰る為に車に乗ろうとするところに、頭の中将をはじめ大勢の公達が迎えに来るシーンが続きます。
 この後に続く、それぞれの運命が交錯するストーリーを予見するような言葉とシーンの流れに、思わず立ち止まってしまうほど引き込まれます。

 明け方の情景は、空は霞に霞んで、山の鳥がどことも知れず囀り交わし、名も知らぬ木や草の花々が、色とりどりに散りまじって、錦を敷いたように見える上を、鹿が立ち止まったり、歩いたりしていて、気分が悪いことも忘れてしまうほどでした。そして山の桜は満開です。側には趣のある風情で水が落ちる滝もあります。頭の中将はこのような風情の中で少しも休まないで帰ってはあまりに心残りだと言い、岩陰の苔の上に居並んで盃を巡らすことにしました。

 それから、頭の中将は懐から笛を取り出し冴々と吹きすまし、弁の君が扇を軽く打ち鳴らして拍子をとります。そこで謡われるのが催馬楽の葛城です。
 催馬楽・葛城については、解説するとひとつのマガジンが書けてしまうほどで、到底『源氏物語』におさまりきれない為、詳述を割愛しますが、別のタイミングで扱う予定です。
 ここでは、この場面で葛城を謡わせた訳を述べておきます。
 光源氏を加持した聖は明け方に、陀羅尼を誦します。陀羅尼とはサンスクリット語を漢訳せずそのまま音写したもので、比較的長いものを陀羅尼、短いものを真言と呼び、密教で重要視された、呪文と呼べるものです。
 当初、聖を京へ召されようとしたのですが、聖が老衰して室から出られないと断った為、光源氏一行が聖の元へ向かうことにしたのです。
 微行でやって来た一行を前に敬った後、「この世のことは思い離れたので、修験の行法なども一切捨てて忘れはてているのに、どうしてこんなに山深い所まで来られたのか」と話しながらも、顔に笑みを浮かべ光源氏の加持にあたったのでした。まことに高徳の上人と見えると称賛しています。

 修験道の開祖といえば、役小角。奈良県葛城地方の生まれです。文章から、聖は修験道の行者だったことが読み取れます。どんな加持祈祷も効果が無かった流行病に霊験があった聖の加持、そして修験道の開祖・役小角をリスペクトしたのではないかと考えます。

 この時、悩ましげな様子で岩に寄りかかっている光源氏は、類稀な美しさで、この世のものとは思えないほどだと描写されます。
 公達が続いて、篳篥や笙を奏し始めると、僧都は琴を持ってきて、光源氏に弾いてほしいと願います。
 今は気分がすぐれないけれども…と遠慮しつつも無碍にはせず、ほどほどに弾いたということです。
 その様子を見ていた人は口々に、この世の人とも思われないと、感嘆するのでした。

 葛城の、二上山の裾野の辺りには、かつて、皇室直轄の標野がひろがっており、鉱物や、紫草などの薬草が採れました。

 葛城に石光寺という寺があり、天智天皇の頃に光る石が見つかり、その石に弥勒菩薩を彫ったと伝わっています。天智天皇は舒明天皇の皇子です。

 紫式部が類稀なこの貴公子を光の君と名付けたのは何故でしょうか。
 このところそれが気になって、考え込んでいる時がありました。
 安寧天皇や雄略天皇がお生まれになった時、宮殿が光り輝いたと伝わりますが、お二方とも天皇であられます。天皇は太陽神、天照大神の直系子孫・日の皇子ですから、そのように讃えられて当然です。
 さて天皇ではない臣下の源氏に光の君と名付けた時に、もしも紫式部の頭の中に、石光寺の光る石があったとしたら、光源氏に救世主的な弥勒菩薩の尊影を重ねていた可能性もあるのではないでしょうか。
 
 物語を通して、光源氏が他の公卿などを陥れるような策略を図る場面はありません。
 あるいは、紫式部はそのような人物像を描きたかったのかもしれません。

 石光寺には、役小角が仏教興隆の為に植えた桜の木がありました。現在はその枯木が残されています。ここに中将姫の伝説との関わりがあります。中将姫については、別枠で取り上げます。
 紫式部がこれを書いた頃には、中将姫の伝説がどのように伝わっていたのか、今の所はっきりと断言できるものはないようです。絵巻物や能の謡曲として様々に語られるようになるのは、もう少し後の時代になります。
 けれども、『源氏物語』を読んだ後世の方々は其々に、思う所を世に残していったのでしょう。多くの人の手を渡って紡がれてきた別の物語は、妙に重なり合って思わぬハーモニーを奏でていきます。

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