鮨を愛する人と、フランス料理至上主義者は(ともすれば)敵対する。その理由は、なぜか?

友を持つならば食の好みの合う人である。もしもあなたが食に関心がないならば、あなたの友もまた食に関心がなく、ただしなにかあなたと共通する価値観を持つ人を友にするのが幸福への道というもの。もしもそれが面倒くさいならば、孤独な暮らしをハッピーに充実させること。たぶんこの3択しかありません。


ぼく自身は調理好きで喰い意地の張った奴だ。そんなぼくは食をつうじて、未知の世界を覗き、おもいがけず食いしん坊たちや料理人たちと出会い、ささやかながら交流できたし、いまなおできていて。ありがたいこと。べつに自慢しているわけじゃないけれど。



食いしん坊が食いしん坊と仲良くなる。近年はインターネットとSNSの時代ゆえ、これはそれほど難しくはない。とはいえ、食いしん坊とて味覚の好みは人それぞれで、なまじ食いしん坊同士ゆえ、おたがいの嗜好の違いを意識しはじめると、おのずとおたがいに「あいつはちょっと違うなぁ」と関係が冷えてゆきもするもの。



まず最初においしさの価値観はひとつではない。それでも共感し合える部分もあるもの。たとえばフランス料理と、中華料理のあいだには肉系のスープをとって、それをベースにソースを仕上げるという共通の価値観がある。また、インド料理とて、いわゆるカレーはソースを愉しむものであって、歴史的に見てソースを重んじる美意識の確立はインドの方がフランスよりもずっと早い。またフランス料理の料理人が、一流インド人料理人のタンドゥーリチキンの焼き方を見れば、「ゲゲッ、すげーーな!!!」と感心するもの。すなわち、フレンチも中華もインド料理も構造がハッキリしていて、そこはもう揺るぎない。



これに対して、世界のなかで孤高にして唯一無二の輝きを放っているのが鮨ですよ。なにしろ刺身に至っては魚の身を切って、客はワサビ醤油つけて食べるだけ。イタリアにもカルパッチョがあるとはいえ。握り鮨とてほぼ同様で、フレンチ、インド、中華料理のおいしさを成り立たせている要素と、ほとんど無関係に成立している。じっさいぼくは長いあいだ、グルメとはいえ鮨バカは別世界の住人だな、とおもっていた。ひそかに差別していた。ごめんなさい、バカはぼくの方でした。



また20世紀末の三十年間、欧米社会でsushi が絶讃と困惑を持って迎えられたのは、あまりにも料理観が違うからであって。この時期欧米社会になんとしても鮨のおいしさを広めようと孤軍奮闘したのが、ノブ・マツヒサ‐松久信幸氏でした。かれについては別稿で述べましょう。たとえばこの時期カリフォルニア・ロールが登場し愛された理由は、かれら欧米人にとってsushi がサラダに見えたからでしょう。いいえ、日本のオーセンティックな鮨の話題に戻りましょう。



鮨美学とは、四季折々の、さまざまな味を備えた魚介をいかにおいしくいただくか、たぶんこれに尽きる。まず最初に職人がいかにいいネタを買えるか。それができるのは、財力ももちろんながら、その鮨屋が市場の卸業者と長年良好な関係を保っているからでもあって。ベースには人と人のコミュニケーションと信頼関係の樹立が必要です。(他方、フランス料理の料理人たちの過半数は食材調達を業者への発注と、いくらかスーパーマーケットでの買い物で済ませているもの。フレンチの料理人で毎朝魚市場へ行く人は、よほどの魚介好きだけである。)


また、江戸前鮨には、いわゆる酢で〆たり、煮切醤油に漬けたり、握り鮨に紫蘇を挟んだり、レモン片を乗せたり、愛らしい趣向がたくさんあるものの、だからと言って、鮨は世界でいちばんミニマルな料理である、と言ってしまうならば、それもまた(なるほど、たしかにそう言えないことはないにせよ、しかし)ちょっとそういう鮨の語り方は違うような気がする。


ただし、余談ながら近年世間で喧伝されている数寄屋橋サブローシローこそが最高中の最高だ、というような風潮もまたちょっとどうかしらん、とぼくはおもう。なにごとにつけ、王道はひとつではない、とぼくはおもうから。



ぼくは長らくインド料理、中華料理、フランス料理を愛してきた。しかし、そんなぼくがさいきん鮨にはまっている。毎日、鮨が恋しい。あるいはそれはぼくが年をとったからかもしれない。仮にたとえそうであったとしても、ぼくはかまわない。老人が微笑みながら、酒を飲み、鮨をつまむ。まるで小津安二郎映画のようではないか。ぼくもまたいつか笠智衆になれるだろうか? (たぶん、なれないだろうにせよ。)



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