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いまを生きよ。

夜と朝のあいだにほんの短いあいだに昏く青い時間がありますね。わずかな風にちいさく葉を揺らす街路樹も建ち並ぶマンションもそして道路もすべてが薄っすら昏い青みを帯びていて。それ以外の色彩は信号機の赤、青、緑、そしてときおり通る自動車の、ヘッドライトの黄、テールランプの赤。それらの光が雨あがりの路上ににじんでいて。けれどもそんな昏く青い時間はまたたくまに終わって、しらじらとした朝を迎える。


ぼくらは時間を見ることも触ることもできない。けれどもたとえば花の移り変わりで時間の経過を知ることができる。冬から春にかけて、椿、オフホワイトのコブシ、天を仰いで咲くコブシに似たワインカラーの花、梅、沈丁花、桜、藤、ツツジ、夏の終わりに女郎花、秋にコスモス・・・。時間にほのかな香りがつき、映像と結びつく。1年間という単位の中ならばぼくらは時間のなかで生きている。



けれども三年、五年、七年となるともう把握できない。記憶は連続性を断ち切られ他の出来事との関係もおぼろになっておぼえているのは断片的な印象、映像、エピソードだけ。最後にはすべての記憶が言葉に置き換えられてそれでおしまい。なるほど言葉は記憶のインデックスにはなる。しかし言葉によって経験をそっくりそのまま蘇らせることはできない。



いまを生きよ。


いま以外にたしかなものはなにもない。この言葉は(刹那主義でも享楽主義でもなく)、とても厳しいものがありますね。

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