武蔵小山のチュニジア・レストラン、イリッサのおもいで。

自分が誰かに愛されているとき、もしかしたら自分はその人の夢見る夢ではないか、とおもうことがある。いいえ、ここで話したいのはぼくの話ではない。


武蔵小山のチュニジア料理のちいさな名店イリッサは、2016年に開店し、2012年2月23日をもって閉店した、理由はチュニジア女性店主メリティ・カルソムさん (Kalthum Melliti さん)の出産による帰国のため。あれから十年以上の時が流れた。嘘みたいだ。


フェニキアの王女をおもわせる名をもつその店は、武蔵小山駅そばの、木造二階家チュニジア食堂。道順は東急目黒線・武蔵小山駅改札を出て、エスカレーターで東口に上がり、前方、花屋とDOCOMOの脇のコインロッカーの、あいだの路地を入って、証明写真のブースを経て、怪しげな店のひしめく飲み屋メディナに分け入ってゆくと軒下に、白いエナメルの塗られた華奢な針金でできた球の形の鳥籠がさがっていて。鳥籠の中に鳥はいません、その代わり観葉植物が入っていて。引き戸を開くと、オープンキッチン、大きな冷蔵庫のある狭いキッチン、清楚な香りのするハーブや、スパイスの香りの混じったいい匂いが漂ってきます。木のカウンターに、5席、テーブルが1卓4人。脇には本棚があって、チュニジアやアラブ関係の雑誌や本が並んでいます。ふだんは一階だけの営業、9席だけのちいさなお店、お客は常連ばかり。


店主のメリティさんは、白い肌に青い目のチュニジア美女、ムスリムらしく、頭にスカーフを巻き、ムスリム女性らしい服装をして、ラマダンの時期はきちんと日中断食をし、よく笑い、気が軽く、おてんばで、お茶目な人、綺麗な瞳は吸い込まれそうなほど大きい、(それでいて、いわゆるマクドナルド式のアメリカンスマイルとは無縁で、むしろ)、彼女の表情はいつも、彼女の心のこまやかな喜怒哀楽をありありと語っていて、それがあまりに正直な本心の表出なので、ときに人は息を飲んだ。メリティさんには、自由な精神と、dignity がそなわっていた。


チュニジア、どんな国なんだろう? 白い壁、青い扉の家々、赤いブーゲンビリアが潮風に吹かれていて。そこがアフリカ大陸の北沿岸であることを忘れてしまう。その国は、イタリアの海向こう。一日五回のお祈りの時間には、時報係の声が響く。lā ʾilāha ʾilá l-Lāh, There is no God,but Allh.
アラーの他に神はいません。それでいてフランスパンがおいしい国、なぜって、チュニジアはアルジェリア、モロッコと同じく、旧フランス植民地だったから。また遡ればチュニジアは、16世紀から19世紀初頭にかけて、オスマン帝国に属領化されていました。メリティさんは、アマジーグ(ベルベル人)とアラブ人のハーフだそうな。彼女はチュニジアの田舎、ドゥッガ Dougga のご出身、村のはずれの原っぱに、(フェニキアを破った)古代ローマの石作りの神殿や、円形劇場が、打ち捨てられたように遺され、潮風に吹かれている場所である。


メリティさんが来日したきっかけは、彼女がチュニジア料理コンテストで一位になって、2004年の静岡県 浜名湖・花博のチュニジア館で、チュニジア料理を紹介するために来日したこと。そう、ムスリムにとって命の象徴である水の芸術、噴水と、そしてメリティさんが、浜名湖にやって来たのだ。半年間の花博で、彼女はすっかり日本を気に入って、2006年、ご自分の店イリッサを、武蔵小山に持った。


開店当初のイリッサのメニューは、サラダ・チュニジア、ブリック、ハリラ、クスクス、それらチュニジア料理のスタンダードはもちろんのこと、ヒルグマ(サフランと唐辛子の香りのする、
羊の脚先とそら豆のスープ)や、カモウニア(マトンのレバーを煮込んだもの)があったそうな、
残念ながら、この時期の料理をぼくは食べていません。イリッサといえば、チュニジアン・ローストチキン 1150円も名物料理のひとつ。チキンが半身で、数種のスパイスで深くマリネされ、
しっとり焼き上げられていました。お店の前にロースターを置いて、このチュニジアンローストチキンを売っていた時期もあったとか。(2007年8月~2009年春までは、東急池上線 長原駅 中原街道にイリッサ二号店南千束店もあって、メリティさんの弟さん、メリティ・ムハンマドさんが切り盛りしてらしたそうな)。


イリッサ武蔵小山店6年の歴史を振り返れば、
メリティ・カルソムさんの料理とともにはじまり、4年間の営業で、常連客もついて、2010年秋から半年ほど、現場シェフがライラさんになって、料理がいくらかイタリアン寄りになって、
しかし2011年春に、それまでイリッサの客だった、黒髪の日本女性、渡辺 maha 美穂 さんが店長代理になって、ふたたびチュニジア料理専門店に戻ったという感じかしら。美穂さんは、もともとカメラウーマンながら、料理人に転じた人、昼間はどこかのカフェで料理を作っているそうな。
彼女はさらりと言った、「フランスへ遊びに行ったときは、マルシェでキッシュとか惣菜を買って食べてばかりいたけど、モロッコでは家庭料理を教わったんですよ。」


メリティさんに見込まれた美穂さんは店の壁をペンキで白く塗り、(彼女はもともとカメラウーマン、ペンキ塗りはおてのもの)、チュニジアの写真を葉書大のちいさな額に額装し、壁に絵皿を飾って、球の形のランプシェイドを飾りました。
白いペンキの塗られた壁に、淡い光の模様を映し出し、(床は、黒い薄石のタイルを貼ってあります)、お店はちょっぴりお洒落に生まれ変わった。そして美穂さんはメリティさん直伝のレシピで、毎晩厨房に立って、料理を作りはじめます。
そのときイリッサは、日本が大好きなチュニジア女性メリティさんと、マグレブ大好きのジャパニーズ・ウーマン美穂さんの、ふしぎなふたりの、木造二階家チュニジア食堂になったのではないかしら。





でも、大きなことは言えません、なぜって、実はぼくがイリッサをはじめて訪ねたのは閉店1か月まえのこと。ぼくはもっと早くこの店に出会っていたならば、と悔やんだものだ。きっとぼくはさぞや変人に見えたことでしょう、だって、当時出版されたばかりの にむらじゅんこさんの『クスクスの謎』(平凡社新書)片手に、東京中のチュニジア、モロッコレストランを巡回する中年男、
ボウズ頭に、眼鏡に、顎髭、派手めの服を着て、
おまけになにかといえばノートにメモを取り、
「わ、わわわ、このブリック、おいしい♪」なんてよろこんでいる。ぼくはいったいなにを求めているだろう? ぼくはいったいどこへたどり着きたいだろう? それはぼくがはじめていちじく焼酎ブッハ BOUKHA OASIS をいただいた夜になった。


パンと、ハリッサがまずおいしかった。パンは空気をいっぱい孕んでふかふかでキャラウェイが香って、素朴だけれど、とてもおいしいパン。
パンにつけるハリッサソース harissa sauce は、
レッドペッパー、ニンニク、ローズマリー、クミンなどを混ぜ込んだ、オリーヴオイルベースの、黒い、辛味調味料ペーストで、チュニジアレストランならばどこも出しているもの、ただし、イリッサのハリッサは、えらく表現力が高く、訊ねてみると、レッドパッパーもローズマリーも、オリーヴも、オウナーのメリッサさんの実家で自家製だそうな。


チュニジアの、三角形の揚げ春巻、ブリック Brick  500円は、これもまたどこのチュニジアレストランでも出している一品ながら、イリッサのブリックはことのほかおいしく、端っこは紙のように薄くカリッとクリスピーで、中央部はむっちりふくらんでいて、その内側に、バジルで和えた缶詰のツナと、マッシュドポテトが少量、そしてとろりんとした半熟卵が潜んでいます、ちいさな太陽のように。レモンをぎゅっと搾って、かじり、ちいさな太陽をすすった。清楚な酸味が、ブリックの魅力をいっそう際立たせた。


あの夜、美穂さんはぼくに言った、「じゃ、オスバン Osban(1200円)、食べてみますか?」
好奇心旺盛なぼくは勧められるままにそれをいただいた。マトンの胃(tripe トリッパ)を皮にして、野菜とコメとミントと刻んだレバーをサフランやハーブで風味づけして、巻いて、それをスパイスの効いたスープで煮込んだもの。外側のトリッパはくにくにした食感、その内側の各種レバーは昏色の奥深いうまみをともなっていて、
これがなんともおいしい。この一品に比べれば、イタリアンのたいていの店のトマトとニンニク風味のトリッパの魅力も色あせる、「オー・ソーレ・ミオ」、ぼくの太陽は、むしろオスバンをこそ照らす。ぼくの地中海のイメージは、その夜のオスバンによって、ひっくり返された。


しかも野菜クスクス900円がまたおいしかった。クスクス粉そのものがおいしいスープを吸って優しく微笑んでいて、そのクスクスの上に、タマネギ、ニンジン、ピーマンなど野菜がいっぱい。実は、野菜ごとの加熱は、やや適当なんだけれど、ソースとクスクス粉がおいしい。訊けば、クスクス粉はなんとメリティさんの実家のおかあさんの自家製。メリティさんのおかあさんが毎年8月に一年中のクスクスをまとめて作るのだそうな。さすが古代ローマの穀物倉庫ドゥッガです。


他のメニューも食べてみたいものがあれこれある、これは通わなくては!ところが、なんという運命だろう、閉店まであと一ヶ月。そこでぼくはその一ヶ月、イリッサに三日にあけず通ったものだ。





イリッサは、武蔵小山駅前のゴールデン街といった趣の街区にあった、まるで新宿歌舞伎町のはずれの飲み屋群居地域みたいである。おもえば武蔵小山、戸越銀座、大井競馬場のある立会川、鮫洲のあたりは、品川区の周縁部で、山の手の、島津山、御殿山、花房山あたりとは似ても似つかない。むろん、エスニック料理ファンはいそいそと下町へ通う、なぜなら、安くておいしい料理が待っているから。しかも、イリッサはそのふんいき、料理、常連たち、なにからなにまでどくとくだった。たとえ店にメリティさんがいなくても、
そこはメリティさんの世界だった。ぼくは行ったことのないドゥッガにおもいをはせながら、イリッサでいろんなごちそうをいただいた。


エッジャ 850円もふしぎな料理だった、
魚も入っている、野菜のトマト煮。ニンジン、ナス、セロリ、ピーマン、カブの煮込みのなかに、
まんなかに卵の黄身が入っていて、ニンニクとオリーヴオイル風味の一品、チュジジア人は、どんだけ卵が好きなんだろう!


チュニジア定番料理といえば、タジン Tagine 600円、モロッコでタジンと言えばとんがり帽子の鍋による鍋料理で、肉や野菜を(無水調理で)蒸し煮したものだけれど、しかし、チュニジアのタジンは、オムレツ、(あるいはキッシュ)。イリッサのタジンは、溶き卵に、じゃがいものピュレを混ぜて、焼き上げたふわふわの小片に、黒オリーヴが飾ってあった。


めずらしい料理といえばノウカ 1000円、
これは、マトンの脳みそをひとつ丸ごと、コンソメスープで煮込んだもの。ふにふにして白子のような味わい。小指の爪の四分の一ほどのニンジンがたくさん混じって、タマネギ、パセリ、オリーヴオイルの風味あって。なるほど、マグレブの先住民アマジーグたちは、羊のあらゆる部位をまったく無駄にしないというのは、ほんとうなんだなぁ。


懐かしいのは、ハマセフート 600円。
どうやらこの料理名は、球状のクスクス(Hamus へンムス)と、魚(フート)を合わせた料理名らしい。ヘンムス+フート、ハマセフート。Hummus Foot 。ショルバ・フート(魚のスープ)とも言うらしい。魚のすり身や、じゃがいもやひよこ豆のピュレのなかに、クスクスをふたまわり大きくして、タピオカ未満な大きさの、球状のクスクス(Hamus へンムス)がいっぱい入っています。魚の優しいうまみたっぷりの雑炊という感じ、ヘンムスはメリティさんのおかあさんの手作りだそうです。クミン、ターメリック、オリーヴオイル風味。


二階でパーティが入ったとき、美穂さんは大量のケフタ keftaを仕込んでいた。ぼくも食べさせてもらった。ケフタとはマトンとタマネギのハンバーグのようなもの。澄んだ肉汁に淡くトマトとかすかなレッドペッパーの味わいがあって、タマネギ、ピーマン、イタリアンパセリが、肉汁の味わいを魅力的に整えていて、おいしかった。1200円。


イリッサでいただいたデザートといえば、定番のマクルート Makroud。デーツ date の果実味のある黒く甘いペーストを包んだペストリーに、
ねっとりした金色の蜂蜜がかかっていたもの。


シャミア 350円も懐かしい。ヴァニラ風味の冷たいゴマのペースト、甘い胡麻豆腐みたいなデザートです。ゴマといえば、Open the sesami!
アラビアンナイトのあの呪文、開けゴマ、ですよ。


イリッサの常連たちがまた、味のある、濃いメンバーが揃っていて。二人揃ってイリッサが大好きな若夫婦、奥様は黒縁セルめがねの似合うレイナさん。彼女の、知的な野球観戦友達氏。ベンチャーズ大好きのお父さんを持つ美穂さんのお友達。花の仕事をしている島好きの女性。若かった頃のフランス料理修行で、クスクスを大好きになった、フランス料理のシェフのジョニーさん(日本人)は、いつもきまって月曜日に現れた。
ぼくはお会いしたことないけれど、常連たちの話題にしょっちゅうのぼった弁護士先生、チュニジア出身のラドアンくんはメタル好きのギタリスト、ウェイヴのかかった茶髪に、ヘイゼルカラーの瞳で、黒い皮ジャンパーがよく似合ってるラドくんは、ニルヴァーナ、メタリカ、メガデス、パンテーラ、はたまたB'z とラルク・アン・シェルと
そしてチュニジアのメタルバンド MYRATH が大好きだ。はたまた沖縄音楽が大好きなチュニジア人の三弦奏者、(本職は大使館勤めだそうな)。
ぼくもイリッサにいるとくつろいで初体面の常連さんとも、話が弾んだもの。お店のテレビでは、美穂さんの好きな、レバノンの歌姫、クリスチャンのNancy Ajram のクリップがかかっていて、
Nancy Ajram は、天真爛漫に、恋の夢を歌い、演じていて。


ぼくらがカウンターでぺちゃくちゃおしゃべりしていると、不意に、二階からおじさんが階段を降りてきて、はにかんだ笑顔でダイニングのトイレットに入ったりした。(実は、かれは整体師さん、二階を時間いくらで借りて整体の仕事をしてらしたそうな。)そうかとおもえば、ぼくらが十時過ぎまでお店でくつろいでいると、店主のメリティさんが帰ってらして、にっこり笑顔でわれわれお客に挨拶し、とんとんとんと階段を上がって二階に姿を消したりして。メリティさんはどこでなにをしてらしたのだろう? 謎は深まるばかりだった。


ある夜、カウンターで食事をしながら、美穂さんとおしゃべりしているなか、おもいがけずデヴィッド・リンチ監督の、『マルホランド・ドライヴ』の話になった。ぼくは言った、あぁ、ふしぎな映画だったね、あれ、たぶんふたりの女の人の魂が入れ替わる話でしょ。


メリティさんが厨房に立つ日は、ミクシィのイリッサコミュで告知され、ちょっぴり特別な日として、メリティ・ファンを集めたもの。他方、美穂さんは、店長代理としてほとんど毎日厨房に立って、一年がたって、気がついたら彼女は、
東京の日本人マグレブ料理人の(たぶん)六人目になっていた。


閉店が決まってから、常連さんたちは口を揃えてせがんだもの、メリティさんが帰っちゃうのは仕方ないけれど、美穂さんが店主になってイリッサを続けてくれればいいのに。美穂さんは困ったように言ったもの、「わたしもちょっと迷ったんですけどね、でも、わたしこれまで旅行ばっかしてきたから、おカネ持ってませんから。」


やがて閉店の日は近づき、イリッサのフェアウェルパーティは、2月18日、19日とイリッサの二階の座敷でおこなわれた。ぼくは19日の常味裕司(つねみ・ゆうじ)さんのウード演奏つきの食事会へ寄せてもらった。例のふしぎな階段をぼくははじめてのぼった、それは忍者屋敷のように急勾配で、階段と壁のハーフみたいなしろもの、一段ごとに古びた木がぎしぎし音をたてた、天井から荒縄を垂らした方が安全におもえた。二階は座敷で、座卓が並び、温泉旅館みたいなふんいきです。参加メンバーには旅行好きが多く、半数以上がチュニジアを訪れた人、なかには世界を旅する文筆家の中山茂大(なかやま しげお)さんもいらしていて。まずは、演奏家も客もみんなでイリッサのごちそうを食べた、
サラダ・チュニジア、メハウファ(じゃがいもとニンジンをダイスカットしたサラダ)、メインのクスクスは大きなアルミのボウルに山盛でサーヴされた。そしてデザートは、胡麻風味の、シャミア。食事を愉しんだ後に、さて、おもむろに演奏会。ウードは、喩えて言えば、古代と現代を繋ぐ、アラブ琵琶である。常味さんのウード演奏を聴きながら、ぼくは目を閉じる、銀色の雨が降りはじめ、その雨の向こうに、白い壁、青い扉、モザイクタイル、睫の長い子供たち、水パイプ、そしてコーランが浮かぶ。メリティさんも、美しく青いムスリム服で、照れながら、一曲歌ってくだすって。最後の一曲は、常味さんのウードと荻野やすよしさんのギターの共演、アンダルース音楽の、たのしく軽快な曲、それはまさにイリッサへの花束だった。


お開きの時間は十一時過ぎ、参加メンバーはみんな、お店の前で、記念写真を撮りあったもの。
(その後、常連たちのための4夜のアンコール営業を経て)イリッサは2012年2月23日をもってとうとうほんとうに閉店した。最後の夜は、美穂さんたらムスリムみたいにスカーフ巻いちゃって、お茶目にメリティ2号を演じてくれちゃって、
われわれ常連たちは、「ふたりのメリティさん」にもてなされながら、ブリック食べて、ハマセフート食べて、クスクス食べて、マクラワ食べて、あぁ、ほんとに閉店しちゃうんだねぇ、淋しいねぇ、でも、めでたい閉店だものね、メリティさんのコドモ、どんなコドモかしらね、たのしみだね、なんてぺちゃくちゃおしゃべりしながら、名残を惜しんだ。)


そしてメリティさんは、伴侶の待つチュニジアへ戻ってゆく、村のはずれの原っぱに、古代ローマの神殿や、円形劇場が、打ち捨てられたように遺され、潮風に吹かれているドゥッガへ。他方ぼくらは、メリティさんの消えた東京に残される。
ぼくはおもいだす、メリティさんがいつかテレビに取材されたとき紹介していた、鉛筆でたくさんの漢字を書いてある、小学生の漢字練習帳と、美穂さんがモロッコで料理を教わるなかで書き記した、モロッコ料理のレシピ手帳を。ふたりの異郷への夢は相似形だったのではないかしら。おもえば、ぼくらは、そのふたつの夢のあいだで、チュニジアレストラン・イリッサで、たくさんのごちそうをいただいたのかもしれなくて、イリッサにいて、ぼくらもまたここではないどこかを夢見ていて、それは夢の増殖をおもわせた。あるいは、ぼくは不意に、自分自身が誰かの夢かもしれない、ともおもったものだ。

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