見出し画像

【超短編小説】裏面

 あぁ、これが裏面に行くと言うことか。
 おれはバイクのハンドルを握りしめた。両サイドの大型トラックが迫ってくる。死角に入って見えていないのか。ホーンまで指が伸びない。
 このまま挟まれたらおれはきっと裏面に行ってしまう。その予感は恐らく正しい。視界の色が反転し始めている。
 俺は──

 その男は自分を裏面から来た、と言った。
 おれたちは飲む手を止めて、隣のテーブルでひとり飲むその男の話を聴くことにした。

「いや、おれは裏面から来たと言うとおまえたちの視点だな。つまり、おれにとってはこっちが裏面なんだ。だから、裏面に来たわけだ」
 男はそう言うと、割り箸でグラスの中に沈んだ梅干しを砕いた。
 透明に、だが時折り鈍く光を歪ませるそのグラスの中で、千切られた赤い梅肉の破片が頼りなさげに回っていた。

 おれたちは黙ってその続きを待った。
 男はすっかり梅干しを粉々にしてしまうと、満足そうに笑ってその種を取り出し、口に放り込むと顔をしかめて噛み砕いた。
 おれも何となく自分たちの皿に残された胡瓜だとかツマだとかを食べて、グラスを傾けた。
 誰かが煙草に火をつけたのか、煙が漂ってきた。チョコレートのような甘い香りがした。

「なんだ、箸が止まってるぞ。……興味あるか。まぁいい、これは独り言だ。信じても信じなくてもいい」
 男はそう言うと、口の中に残った種の破片をグラスの中に漂っていた梅肉や透明な液体と共に飲み下した。

 男は裏面の行き方をざっと説明した。
 例えばエレベーターで誰にも見つからず一番下と一番上を5回往復するだとか、コインランドリーのガス乾燥機に入って待つだとか、行き交う電車の真ん中に立つとか(つまり線路に降りろと言っていた)、方法は意外にも多いと言って笑った。
「まぁ試すやつはほとんどいないからな」
 神社の鳥居の上からバク宙するなんてのもあるぜ、と言って笑う男の目は全く笑っていなかった。

「裏面と表面の違いは何かって?そうだな、基本的な事は何も変わらない。こうやって喋る言葉とか文字とか、法律だとかのルール、国家間のそれとかも基本的には変わらない。
 だが何かが違う。それが何か分からないが何かが違う。こっちにいるおれの友だちはやはり表面のように俺と話すし遊ぶが、どこか決定的に違う。それが何かは分からない。だが絶対に何かが違う。
 それを解くまではここを出られないんだと思うよ」
 おれはグラスを置いた。
 

サポートして頂けると食費やお風呂代などになって記事になります。特にいい事はありません。