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Re: 【小説】kemuri座ぼくらの学級会

 一刻も早く帰りたい。
 だが誰もそれを言い出せずにいる。
 すでに夕方のチャイムは鳴り、窓から見える夕陽が民家の谷間に沈もうとしている。
 空を支配しようと待ち侘びていた群青は顔色を変え、動揺したカラスたちが大きな声で鳴き、どこかからやってきた気の早い蝙蝠がそわそわと揺れ動いている。

 一刻も早く帰りたい。
 おれたちは教室の硬い椅子の上に座ったままだった。
 短パンとケツの間に溜まった熱は湿気を帯び、教壇に立たされた少年と少女は疲労の限界らしく、常に足の重心を変えてどうにか立ち、担任教室は腕を組み、マリアナ海溝より深い皺を眉間に寄せて目をつむりながら永劫にも思える虚無の時間を支配していた。


「先生、決戦投票をしましょう」
 薄氷を踏むような声で誰かが手も挙げずに言った。
 教室の後ろの方からだった。
 おれが振り返る間もなく拍手が送らた。教室中に拍手が波及し、決戦投票は満場一致だろうと思われた。
 もちろんおれも力の限り拍手をした。

 早く帰りたい。

 だがその拍手の波も、寄せては返すうちに教師のマリアナ海溝に飲まれて静まり返ってしまった。
 拍手が完全に止んだ。
 おれたちは挫けそうだった。
 だがその瞬間に腕組みをしていた教師は頷いてから立ち上がり、チョークを掴んで黒板に少年の名前と少女の名前、そして決戦投票を発案した少年の名前を書いた。
 教師からは誰が言い出したか見えていたようだ。そして最後に少し振り向いて教室を見ると「それ以外の全員」と書き、白いチョークを置いた。


「さぁ、それでは始めよう。まず誰が罰を受けるべきか」
 教師は完全に振り向くと、満面の笑みで両手を広げた。
 少年Aがクラスの半分、少女Bがクラスの半分。
 予想通りの結果だ。意味が無い。
 だが永劫の虚無を過ごすよりマシだ。
 その機に乗じてしばらく喧々諤々の言い合いをしていたが、教師はすっと手を上げてその場を静めた。
「うん、無駄な時間だったね。それじゃあこの投票を言い出した人も連帯責任で罰を受けると言うのはどうかな」
 
 その瞬間だった。
 決選投票を言い出した少年は着ていた体操着を脱ぎ捨てると腹に巻きつけたダイナマイトを指し示し
「しゃあっすおぉるぁったらぁおお!?」
 と叫んだ。
 そう叫んだと断定するには曖昧だがそう聞こえた。意味はわからないし、もしかしたら日本語ですらないのかも知れない。
 だがその迫力で良かった。
 
 おれは懐からお札を取り出して印を切りながら般若心経を唱えた。
 初めて戦った
「犬神!」
みんなで唱えた
「般若心経!」
 そうだ、おれたちの卒業答辞はここから作られたんだ。
 今だって覚えている。

 おれが唱え始めた般若心経は次第にクラス全員が詠唱するに至った。
 色即是空空即是色と叫ぶ段では髪を振り乱して身を捩りながら叫ぶ者も現れた。
 おれが少し好きだった桜井さんも長い髪を、と言うか頭を上下に振りながら色不異空空不異色と絶叫している。まるでバンギャのヘドバンのようだった。
 咲き散らかしながら唱えているひともいたかも知れない。

 般若心経のサビのハモりが決まったあたりで腹マイト少年は口に咥えていた葉巻を吐き出した。
 いつの間にか頭にかぶっていた難しい漢字で何か書かれたヘルメット、そして同じくいつの間にか羽織っていた法被をひるがえし
「民主主義は死んだ!」
 と叫ぶやいなや、葉巻を腹マイトの導火線に押し付けた。
 あぁ、今日がおれたちの命日か。


「はい、みなさん目を開けてください」
 
 ぱん、と教師が手を叩いた。
 教室は静まり返っている。
 教師はおれたちを見回すと、嬉しそうな声で笑う。
「それでは、みなさんにちょっと殺し合いをしてもらいます」
 教師はこともなげにそう言った。

 呆気に取られたおれたちがぼんやりしていると、教師はみるみる赤い顔になって口角に唾を溜めながら絶叫し始めた。
「お前ら大人をナメてんだろう!お父さんとお母さんのおうちでホカホカの美味しいごはんを食べてお風呂にも入って布団で寝ながら原発は要らないとかSDGsとか言いやがって!なぁ!せめて仕送りなしの一人暮らしをしてから言えよ!資本主義はクソだと言いながら自給自足もする根性すらねぇだろう!」
 教師は机の一番大きい引き出しから巨大な酒瓶を取り出すと、瓶を回しながら中身を一気におあり、飲み切れなかった分を霧状に噴き出すとそこにジッポライターで火を放った。
 真っ赤な光の玉が広がった。
 一瞬の毒霧が教室を覆う。
 教室の虚無が焼き祓われた。

 そして廃墟のようになった教室で、瓦礫の中から立ち上がったひとりの生徒が言った。
「民主主義は死んだとおっしゃいましたがそれはどういう事でしょうか、投票結果にご不満があるのでしたら選挙管理委員会にお申立てください」
 つまりロックンロールだ。
 いや、違う。
 ここは確かに教室だ。
 だがもう深夜だ。
 おれは夢を見ている。昼間の夢だ。時刻はもう深夜になろうとしている。
 居残りだ。
 おれは給食の付け合わせで出た大嫌いなホウレンソウの胡麻和えをどうにか残り一枚まで減らしていたところだ。
 隣の席では少し好きな桜井さんが牛乳を目の前に苦戦している。あれは見たところまだ半分以上残っている。
 その奥にはデブの緒方が肉の脂身を前に脂汗を垂らしていて、そのさらに奥には……暗くて見えないが、この教室には給食を残した生徒が何人か残っている。


 怪しく微笑む教師は
「勝手にラスタファリアニズムをやるのは構わないけれどね」
 と言いながら紙巻の煙草状のものを咥えると火を点けた。
 煙を吸い込み、しばし静止して肺に溜めてからゆっくりと煙を吐き出した。

 それはひとつの消失点だったのかもしれない。
 おれは気合いの雄叫びと共に最後のホウレンソウをつまんで喉に押し込むと桜井さんの牛乳を奪って飲み干し、緒方の脂身を先生に叩きつけると誰かの残したピーナッツをケツの穴に詰めて噴射した。
 バスガイド発射オーライ!
 教師の眉間に当たったピーナッツは弾けて散った。

破魔!!

 
 教室の窓が割れて光が射し込んだ。
「光だ!」
「朝だ!」
「おれたちは救われたぞ!」
 教室中から歓喜の声が上がった。
 おれは机の上に仁王立したまま少し好きな桜井さんの牛乳パックを握りしめていた。
 少し好きな桜井さんは顔を赤らめて両手で覆っている。その隣で緒方が低い声を出して笑っていた。ピーナッツ寺沢の長い睫毛が揺れた。
 そうだ、それは寺沢の睫毛だったんだ。


 おれは牛乳パックを放り投げた。
 数滴の白い液体が宙を舞った。
 桜井さんとか緒方とか寺沢の顔に着地した白い液体。
 おれは興奮した。
 牛乳。タンパク質。白い血液。
 ひび割れた窓ガラスから差し込む朝陽。
 砕け散った教師の顔から出てくる黒い物体。
 それは月の裏側の色に似ていた。


「これにて閉廷!」
 そう叫んだ教師は砕けた顔を気にすることなく、手の平で机をバンバンと叩いた。
 机を叩き続けた教師の掌は真っ赤に腫れて、やがて皮が避けて肉や血が飛び散り始めた。
「これにて閉廷!これにて閉廷!」
 おれたちは狂ったように叫ぶ教師を黙ってみていた。
 それが卒業式になるからだ。
 葬送。葬列。それが帰りの会だ。

 担任教師はいつだっておれたちの被害者だった。
 おれたちの悪戯やおれたちの遊戯。
 おれたちの気まぐれだとか局所的な流行、そういったくだらない様々に振り回されていた。
 担任教師はつくづくおれたちの被害者だった。
 つまり担任教師にはおれたちを殺す動機があったし、おれたちには担任教師を殺す理由があった。
 教師はおれたちの親が払った学費でメシを喰いながらそのガキたちであるおれたちを心の底から憎んでいた。
 今まで習った担任教師の家には生徒の数だけ藁人形が置いてあった。
 担任教師の家の近所にある神社にある神木は藁人形の打ち込み過ぎで腐って倒壊した。
 卒業式の日に担任教師がくれた一口サイズのお菓子にはフグ毒だかトリカブトだかが使われていたらしい。
 実際におれたちは星になったし、教師は笑いながら肺に溜め込んだ紫色の煙を吐き出していた。

「先生は煙を?教室で?冗談じゃない、先生。ここは禁煙ですよ。ベランダもダメです」
 小学校に喫煙所はあるのだろうか。
「おれたちは中高生になった暁には、教師と一緒に煙草を……さすがに酒はダメだよ。脳みそが馬鹿になるからな。煙草は構わないさ、人生が馬鹿になるだけだ」
「でも先生、それは煙草とは違いますよね」
「そんな事は無いさ」


 おれはポケットの中のお札で葉っぱを巻くと火を点けて般若心経を吸い込んだあとに口からゆっくりと南無阿弥陀仏を吐き出した。
 帰りの会がまだ終わらない。

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