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統合失調症と純粋経験

先日、山に登ったとき、山頂のベンチに仰向けになると、上空で鳥が一羽飛んでいるのを見た。私には、その鳥の動きを追う以外、まったく思考というものが存在しなかった。この鳥の動きを無心で追う経験を純粋経験と言うのだと思う。
 
純粋経験とは西田幾多郎という哲学者の概念である。
西田はその主著『善の研究』の中で、純粋経験の例として画家が絵を描いているときの精神を挙げているが、私はこれを誤解を生む例だと考えている。日本画の例えば狩野派のような精緻な絵画を描く場合はこの例に相応しいが、ゴッホなどの荒っぽいというか大胆な描き方をする画家は純粋経験の例にするのは相応しくないだろう。その点、私の上記の鳥の動きを追う精神を純粋経験と呼ぶのは適切だろうと思う。
 
鳥の動きを眼で追うことを純粋経験と呼ぶ条件として、この鳥と私の間に言語がないことが挙げられる。
私は統合失調症を患っていて、常に脳内独語があり、その脳内の言語空間を通して外を見るという状態が長年続いた。しかし、今回、山の上で鳥の動きを眼で追っていたとき、脳内独語は消滅していた。
しかし、「あ、これは純粋経験だ」と言語化した瞬間、私と鳥の間に言語の窓が閉じてしまった。心には窓があり窓の外で鳥が飛んでいて、窓の中に哲学の属する言語空間があると私は考える。そして、窓を開け放ち、窓の中を空っぽにして窓の外を見ることが純粋経験であると私は考える。
 
純粋経験という言葉自体言葉である以上、窓の外を見る経験を阻害するものであるが、統合失調症を病んでいる人には純粋経験という言葉は、心の窓を開くための羅針盤になってくれると思うので、今回この言葉を紹介する意味で、この文章を書いた。

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