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最高に贅沢な暮らしを突き詰めて考えてみる

最高に贅沢な暮らしとはなんだろう?
まあ、お金持ちの暮らしと言うことだが、それはたぶんなんでも手に入る暮らしだろう。
なんでも手に入る暮らしとはなんだろう?
大きな家とか、高級車とか、プライベートジェットとか、そういうものを持つことが贅沢なのだろう。もちろん高級料理を毎日食べることも最高に贅沢だと思う。男ならば美しい女性たちに囲まれた生活も贅沢かもしれない。
とにかくなんでも手に入る暮らしが贅沢なのだろう。
そうなると、なんでも手に入る暮らし。よく言われている、富、名声、権力、この三つが人間の欲する三大欲望かもしれない。そうなると、私が上に挙げた贅沢な暮らしは、「富」だけだったということになる。富を極めた者は権力を手に入れようとするかもしれない。国を治める王様になるのがいいだろう。そうすればカネでは手に入らなかったものまで手に入るようになる。私は権力者になったことがないからわからないが、自分の命令一つで何万人が動くというのは気持ちのよいことなのかもしれない。では、富と権力を極めたとしよう。すると、次に欲しくなるのは名声なのだろう。名声と言ってもいろいろあるが、死後の名声、永遠に滅びることのない名声こそが欲望の最高峰になるのではないかと思う。そうすると、世界中の歴史を見たときに、富と権力を持った王が死後どれだけの名声を手に入れているか?私が思うに、死後の名声で、際立っているのは、キリストやブッダやムハンマドなど思想的な勝者だと思う。そういう思想家になることが人生の勝者かもしれない。そうなると、先に挙げた贅沢な暮らしの富や権力は思想家としての勝利には邪魔かもしれない。酒池肉林にいた権力者は尊敬されないだろう。
私はそんなふうに考えて、キリストやブッダみたいになるにはどうしたらいいかと中学生の頃から考えていた。まさか、いまどき、「私は救世主だ」と言って信じてくれる人もいないだろう。そうなると思想的勝者になるには複製可能な作品を残すことだと私は考えた。思想書、小説、マンガ、映画、などだ。そんなわけで、中学生の頃から私はマンガ家を目指し、それが挫折して、現在は小説家を目指している。そういうものの考え方生き方をしてきたから、友達は少なく、恋愛にも縁がなく、カネもなく、不幸な人生を生きているような気がする。最近は異常気象や核戦争などを肌で感じて、自分の欲している死後の名声というものが不確かなものと強く感じるようになってきた。人類が滅びれば名声は消えるのである。そうなると、人生のそのときどきの欲望を満たすのが最高に贅沢な暮らしだろうと思う。となると、やっぱり金持ちになることだろうか?金持ちが一番贅沢な暮らしをしているだろうか?しかし、上に述べたように金持ちには手に入らない権力というものがある。権力がない金持ちは結局は最高の贅沢をしているとは言えない。では権力者になれば贅沢な暮らしかというと、名声が伴わない権力は虚しい。じゃあ、富、権力、名声、三つが揃った人生が最高かというと、最後の名声は人類の存亡に関して不確かなものである。と無限螺旋に入ってしまう。そこで、私は最高の贅沢とは、欲望が満たされることではないのではないか、と考えるに至った。まあ、そもそも贅沢を否定すればいいのだが、この文章では贅沢を肯定しようと思って書き始めたから、贅沢は否定しない。欲望を否定するか、少し工夫を加えるかすればよいと思う。それは、無欲とか寡欲ということになると思う。無欲というのも難しいと思う。人間はものを食べねば生きていけない。そうなると寡欲ということに行き着く。少ない欲望である。いや、欲望というか欲求である。欲望と欲求は違うそうだが、そういう議論を私は知らないから、このふたつを「欲」としてまとめてみてもよいと思う。欲は人生のうちには必ずあるものである。欲求五段階説などというのもあるらしい。しかし、上に述べたように死後の名声も宇宙の中では虚しい塵にも等しいものである。そういう宇宙の中の自分という大局に立てば、満足できる人生を送ることが大切なのであり、満足とは何かと考えれば、欲が満たされていれば良く、そんなに大きな欲はかかないほうが良いのである。子供のいない人は不幸か、ということも言えそうだが、上に述べたように、人類がいつまでいるかわからないと考えれば遺伝子を残すことは人生の至上命題ではないし、子供のいない人はたくさんいる。つまりは子供が欲しいという欲が満たされないことが不満足で不幸になるのであって、最初から求めなければ不幸の芽を摘むことになると思う。
 
やっぱりこういうことを考え出すとわけがわからなくなるが、少し、視点を変えてみる。
 
ここに一杯の水があるとする。その水を飲むことは贅沢だろうか?水のない砂漠にいれば贅沢だろう。日本のように水に恵まれた国ではたいした贅沢ではない。ないところでは贅沢であり、あるところでは贅沢ではない。そういうことだ。
 
友達がたくさんいるときにはその価値がわからず、孤独になればその価値に気づく。私は中学生の頃までは友達が多かったが、中学生以降、死後の名声など考え始めてから友達が減った。友達というのはなによりの贅沢だと最近思う。宇宙の中で出会えた数少ない人だから、大切にしたい。友情、愛、そういうものは時を超えた永遠の世界のものだと思う。そういうものに満たされた人は、富、権力、名声などは求めないものである。私は小説家を目指していると述べた。しかし、友情や愛をわかっていない人間にはたいしたものは書けないのである。答えは本の中にはない。実際に生きる人生にある。最近そう思う。彼女が欲しいし、結婚したいし、子供も欲しい。しかし、上に述べたようにそのような欲は満たされねば不幸になるだけである。それよりも、今日一日、どれだけ周りの人を愛せたか、そのことを考えて生活した方がいいと思う。今日一日、最善を尽くせたか?最善の一日が積み重なって最高の人生ができていく。今回のテーマ「最高の贅沢」にこじつければ、最善の一日を過ごせる環境にあることが最高の贅沢だと言える。

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