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文学とは何か?

文学はなぜ文学と言うのだろうか?
音楽が「音学」ではなく「音楽」と言うのに、なぜ文学は「文楽」ではなく「文学」なのだろうか?これは訳語の問題だけだろうか?英語のliteratureを当時の日本人は「文学」と訳したわけは何だろう?まあ、そういうことは学者に聞けばわかることかもしれない。しかし、私はこういうことを考えることが好きなので自分勝手に考えてみたいと思う。だから、この文章に文学の歴史とか知識を期待する人には読むに値しない文章になると思う。ただ、私の思考につきあってくれる方だけが読める文章になると思う。
小説は文学の一種である。詩も文学である。しかし、文学と言うとき、日本人は芥川賞とか夏目漱石や森鴎外、あるいは『源氏物語』などを想起するかもしれない。とくに芥川賞なんかは純文学の賞である。最近インターネットで知ったのだが、芥川龍之介と谷崎潤一郎が、小説には筋の面白さが必要か否かの論争をやったそうだ。芥川は筋が面白くなくても小説の価値は下がらないとしたのに、谷崎は筋の面白さが小説の価値を決めるなどという論争をしたらしい。そのせいか、芥川賞は抑制の効いたつまらない話だけど「深い」ものが受賞する傾向があると思う。芥川賞と対になっている直木賞は面白さ重視なのだが、私が見たところなぜか、「深さ」も求められていると思う。直木賞の方が芥川賞に歩み寄りながら、芥川賞はそれから逃げつつあるようなそんな印象を受ける。私は小説家を目指していて、どんな小説を書きたいかというと、筋が面白くて深いものだ。芥川と谷崎の論争を止揚すれば当然出てくる帰結だ。それを真面目にやっている芥川賞作家は村上龍だと思う。私は彼の作品は三つしか読んでなく、『限りなく透明に近いブルー』と『コインロッカーベイビーズ』と『半島を出よ』である。まあ、私の好みの世界観ではないのでそれ以上読んでいないが、その構想力、表現力は尊敬に値する。そういえば松本清張だったか忘れたが、直木賞と芥川賞のどちらの候補とするか議論があったそうだ。つまり私はそういう小説ほど価値が高いと思う。たしかに、筋が面白くなくても価値が高いものはあるし、逆に筋は面白くても価値は低いものがある。私はアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』は面白いのだがつまらないと思うし、吉川英治の『宮本武蔵』も面白いのだが、その面白さが面白くなく途中でやめてしまった。やはり、純文学性は必要だと思う。それと筋の面白さも必要だと思う。必要と言ってしまうと芥川が言ったような、筋がつまらなくとも価値の高い小説はあると言う価値観を否定しているようだが、そうではなく、文学に、というか、物語に面白さを求めるのは読者として当然だと思うのだ。私はあまり読まないが、東野圭吾の作品などは面白くて深く、そのために抜群の人気があるようだ。私も『容疑者Xの献身』を読んだときは感動した。私はミステリーが好きなわけではないが、この作家は凄いと思った。その作品は直木賞を受賞した。芥川賞も直木賞に歩み寄ることはないのだろうか?まあ、文学賞のことばかり書くとこの文章の目的である「文学とは何か?」から離れてしまう気もするのでもうやめるが、ここからは純文学でもそうでない文学でもその目指すものを考えていきたい。
ライトノベルというのがあるが、私は一冊『涼宮ハルヒの憂鬱』というのを読んだことがあるだけで、他はまったく読んでいない。私は現在『小説家になろう』に小説を連載しているのだが、あのサイトに投稿されるものの多くが、ゲームやアニメ、マンガの二次創作的なものであるのは驚いた。「異世界転生」とか「悪役令嬢」とか私にとって馴染みのない言葉が当たり前のように乱れ飛んでいるのだ。「転生したら悪役令嬢でした」みたいな作品が多く、私はそういうものにまったく興味が無いのだが、私の小説なんかよりずっと読者が多いのは不思議に思う。それらは書籍化することはあるのだが、その書籍は大概、ライトノベルとしてアニメみたいな表紙が付く。私はああいう作品のどこがライトなのかわからない。いや、「軽い」の「ライト」ではなく「明るい」なのか、よくわからない。たぶん軽いという意味でのライトノベルだろうが、私には入り込みにくくその軽さがわからない。ではライトノベルは文学か?と考えると、「異世界転生」など、あれだけ多くの人が好む題材なのだから、時代的にもなんらかの精神性があるのだろう。しかし、ライトノベルは芥川が考えるような文学ではないと思う。結局売れるライトノベルは、精神性が高い物になると思う。そうなるとライトノベルと言っても文学の中にあるのだと思う。『涼宮ハルヒの憂鬱』は私にとっては大きなインパクトがあった。
では「ライト」ではないものが文学なのか?
「ヘビー」なものが文学なのか?
ヨーロッパには「悲劇」と「喜劇」の区別がある。どちらかというと悲劇に価値が置かれる傾向にあると思う。芥川賞作家の羽田圭介の作品で『不思議の国のペニス(のち改題)』を読んだとき、最初は真面目に読んでいったら、途中から、「こいつはバカなのか?」と腹を抱えて笑って、一気に読了したことがある。小説であんなに笑ったのは初めてだった。笑わせるのを「喜劇」というのか知らないが、小説には笑わせる力も充分あると思う。笑わせるものが文学と言えるか?言えると思う。文学は深く人生を考えることだけが目的ではないと思うのだ。そうなると落語なども文学だと言えると思う。あれはただ笑わせるだけではなく、喋りにより、深い味わいを表現することができる。立川談志の落語を生で見たことは残念ながらないが、動画で見たりすると、笑うために見るのでなく、その人の世の中の見方とか皮肉などを楽しんでいる私がいる。しかし、落語は噺であり文章を読むことではない。もし、文章化された作品を文学と呼ぶとなると、落語は排除され、演劇も脚本だけが文学とされてしまう。シェイクスピアは読むものなのか、演劇として見るものなのかよくわからない。じゃあ、映画は文学か?と言うと、なんとなく違うと思う。視覚に訴える表現だからだろう。そうなると演劇も文学ではないことになる。しかし、そういう映画や演劇も「文学的だ」と言われるものも多くある。カンヌやベネチアの国際映画祭で受賞するのはそういった映画だと思う。そうなるとそこに現れる「文学性」とは何かということにもなりそうだが、そうなると話がまた元に戻りそうだ。芥川賞は純文学で、直木賞は娯楽文学。この二方向に分裂する文学をひとつに止揚することが大事であると思う。
そこで話題を少し変えると、詩こそ純文学じゃないかと思えるかもしれない。たしかに詩は深さだけで勝負している感じがする。筋の面白さはない。筋そのものがないからだ。ここで私は筋の重要性にもう一度行き当たる。文学に筋は必要ないのか?詩はその背後に豊かな物語を見せるところも力量だと思う。そうなるとやはり詩においても筋と深さが求められているとも思う。
私は文学と言うか物語を想像することが人間の最大の能力のひとつであると考える。文学とは何か?その答えとして私は「面白くて深い物語」のようなものを漠然と普段から考えているのだが、この文章で述べてきたことを考えるとまだ答えは出ていないと思う。

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