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癒やされに山へ

本日、近場のいつも行く山へ登った。
標高五百メートルほどの山だが、近いことと景色がいいことから年に何十回と登る山である。


この山に今日ほど癒やしを求めて登ったことはなかった。
私は現在職場の人間関係に悩まされていて、今朝も悪夢を見た。
起きたのは十時過ぎだが、この近場の山に登ろうと昨日は思っていたものの、起床するともう悩みのことで、気が重く、行く気がしなかった。
しかし、私は山に行くと、精神が癒やされることを経験的に知っているので、無理にでもこの近場の山に出かけた。
登山中はやはり、職場のことが頭から離れなかった。
それでも、ときどき、美しい景色が目に飛び込んでくると、嫌なことを忘れることができた。


今日は天気が良く、山頂からは富士山が見えた。

そうしていると、職場の人間関係も客観的に考える余裕さえ生まれた。
山に行っても結局は下界のことを考えている自分がいた。
そうだ、私はいつもどんなに高い山に登っても、下界のことを忘れることはなかった。しかし、山の上からだと、その下界が違って見えるから不思議だ。

山頂でラーメンを作った

人間は社会的動物で、社会から逃れることはできない。
しかし、山に登ることで、その社会から短い間でも離れることができる。
そうすると、社会の良い所悪い所がまた違った視点で見ることができる。
そして、本日ほど単独登山の歓びを感じたことはなかった。
私は友達がいないので仕方なく単独登山をしているのだが、本日は山の中でひとりになれて本当に癒やされた。自然の中でひとりになれることの重要性がわかった。


俗世間を捨てる僧侶にはなりたくないが、社会で生きつつ、自然の中で独り遊ぶ時間を作ることは心のバランスを保つ上で重要であると思った。もし、俗世間を捨てて山の中で修行する僧侶になったら、社会性の欠如により人間としてのバランスが崩れてしまうだろう。
山も下界も両方がバランスを持って人間の中に存在することが大切だろうと思い至った。

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