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統合失調症とコペルニクス的転回

哲学者カントのコペルニクス的転回というものの説明から入ろうと思う。
 
カントの哲学はニュートンの物理学をモデルにしていると言われている。
物理学は普通、この宇宙にはどのような法則があるかを説明する学問だ。つまり我々の外にどのような法則があるかを見つける学問である。
しかし、カントは我々の外にそれらの法則があると考えるのではなく、外にあると思っている法則はじつは我々の内部に、外の世界をそのように認識するための形式として生まれながらに持っているものである、と考えた。これを、地球は宇宙の中心にあり止まっていて、その周りを月や太陽や星々が回っているという天動説が当たり前だった時代に、「いや、地球が動いていて太陽の周りを回っているんだ」という地動説を唱えたコペルニクスになぞらえて、カント自身、「コペルニクス的転回」と呼んでいる。
ようするに我々が外にあると思っているもの、それはじつは内部にあるものだと逆転の発想で考えたのがカントだ。
では我々の外には何も存在しないのか、存在するとしたら何が存在するのか?この問いにカントは認識できない物自体が存在していると考えた。
 
さて、ここまではカントの哲学をコペルニクス的転回を中心にざっと説明したのだが、本題はここから。
 
我々の世界は窓の外にあると思っていたが、じつはすべて窓の内にあるというのがカント風な考え方だと思う。カント的に言えば窓の外に物自体があると言うのだろう。カントは物自体を想定できるものの、認識はできないと言っている。この物自体を窓の外にいる他者と考えたらどうだろう。
 
我々は窓の外へ出て行き他者とコミュニケーションを取ろうとするのが健康的な在り方だと思う。しかし、他者も自己もそれぞれの窓の内側に部屋を持っている。
よく共通の趣味を持った者は友達になりやすいという。これは窓の内側に似たようなものを持っているからである。しかし、共通の趣味の話をするとき、我々は他者と会話しているだろうか?もちろんそれを否定したら会話は成り立たない。しかし、これが窓を閉じて、自分の中の相手のイメージのみと話しているとしたら、それはコミュニケーションとは言えないと思う。私はこの窓を閉じたコミュニケーションしかできなくなる病気を統合失調症というのだと考える。
 
カントの物自体は絶対に知ることはできないが、その物自体の手前にある現象だけは知ることができる。他者もこれと同じで、その人のすべてを知ることはできないが、その人の持っているもの(姿、思想など)は知ることができる。
コミュニケーションで大事なのは、他者を理解することはできないと知りながら、窓の外へ出ていき、アプローチすることだと思う。我々はアプローチをやめたら窓を閉ざし、自分の部屋の中だけで生きることになる。
 
窓を開き外へ出ていくことは誰でもできる。
統合失調症は窓を閉ざすことによる病気であるが、たとえ何十年その病のために窓を閉ざしていたとしても鍵さえ見つければ、いつでも窓を開けて外へ出ていくことはできる。
十代でも二十代でも四十代でも六十代でも八十代でも遅すぎるということはない。
鍵は自分のペースで探せばよい。


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