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統合失調症で引きこもりの人という偏見、そしてアウトドアを考える

私は最近、統合失調症で引きこもりの人にアウトドアを勧める文章を書いているのだが、少し自信がなくなってきた。そもそも、統合失調症で引きこもりの人とは誰なのだろうか?そんな人はいるのだろうか?私の知人で統合失調症を患っている人には、釣りと草野球が趣味という人もいるし、サーフィンが趣味という人もいる。そのサーフィンを昔からやっている人が一時期釣りにハマっていて、私はその人に釣りを教わった。後に会うと、釣はもうしていなく、また、サーフィンをしているそうだ。
たしかに知人の中には統合失調症で家にこもり、読書やゲームなどばかりしている人もいる。私はその人を念頭に「統合失調症で引きこもりの人」をイメージしているのかもしれない。でも、そういう人ばかりではないはずだ。これは私の偏見がそういう人のイメージを作り上げているのかもしれない。「統合失調症でニートでオタク」こういうとイメージがわきやすいのではないだろうか?以前、統合失調症患者はニートではない、とコメントを頂いたこともあるし、ニートがみんなオタクではないだろう。部屋でマンガかライトノベルを読み、ゲームをして、音楽を聴き、パソコンかスマホでネットを見て過ごしている、そんな人を私は勝手に作り上げ、その中でもとくに重症である統合失調症患者の背中を押したいと私は勝手に思ったのだ。しかし、そのイメージの正体は過去の私であり現在の私の中の一部であると気づいた。私は小説家を目指している。それだけでもう、典型的な引きこもりかもしれない。しかし、私は引きこもって文学や哲学を読んでいた。マンガは二十代ですでに読まなくなったし、ライトノベルは一冊しか読んでいない。同じ引きこもりでも文学や哲学を読んでいた私は偉い、というわけでもない。私の友人にも統合失調症で引きこもり、文学や哲学を読んでいる人がいる。だから、読んでいる内容、生活の在り方で引きこもりかどうかが決まるのではないのだろう。それが決まるのは、俗な言い方をすれば、自分の殻に閉じこもっているかどうかだろう。そうなると大事なことは家にいるかいないかではなく、自分の殻を突き破るかどうかになるだろう。小説家の三島由紀夫は、自分の殻を突き破ることを、非合法に求め死んだ。私はそれを間違った自分の殻の突き破り方だと思う。犯罪をするよりずっと簡単で健全で効果的なものがある。それがアウトドアだ。サーフィンをやっている私の知人は、統合失調症であるが、波に乗っているときは何を感じているだろう?釣りが好きな知人は、大物を釣り上げたときに何を思うだろう?きっと、自分の殻の外を垣間見ているに違いない。そういう私も、登山で、気持ちがリフレッシュされると感じている。登頂して景色を見るときの気持ちは、統合失調症を患っているにもかかわらず、爽快でたまらないのだ。これは体感を語っているので、理屈ではない。どんなに高邁な哲学書を読んでも、雲の上の山に登る気持ちはわからない。しかし、私は読書を否定しない。それが良書であれば、読書はすべきだと思う。内向外向という言葉があるが、内向は読書などに求め、外向はアウトドアに求めてはいかがだろうか?内向で殻の中を整理し、外向の行為で殻を突き破る。外向の面で他人は私たちの殻の内部を見る。殻の内部が美しい人を人は明るい人と見る。殻を破り常に外向的で友達がいっぱいいても、殻の中が醜いと、人はその人を明るい人とは見ない。ただ、コミュニケーション能力があるかが問題ではない。だから殻の中の美しさに自信のある人は、次は殻を破ることが大事になるだろう。殻があるのは統合失調症の人のみではない、すべての人にあるのだ。統合失調症で殻に閉じこもっている方はもちろん、病気でなくても自分の殻に閉じこもっていると感じている方にも言いたい。アウトドアをお勧めします。自然の中へ、殻を破り飛び込むことで殻の中も洗われます。絶対です。


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