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お江戸お仙の千里眼【第二話 死に臨む体験 一】

 明和元年、一七六四年、お仙達三人が十の歳の夏のことである。柳家のお藤は踊りの稽古から帰る途上にあった。
 浅草界隈には踊りを教える者はいくらでもいたが、お藤の母親お栄はわざわざ日本橋人形町に住む踊りの名人の所までお藤を通わせていた。その日は、お供の丁稚・利松のちょっとした失態があり、お藤は朝食はおろかお茶もろくに飲まずに出かけたのだった。人形町までは歩いて半刻かかる。速足に歩いて稽古の時間には間に合ったが、師匠も飲み込みの良いお藤の指導は楽しいと見えて早速始めましょうということとなり、いつにもましてこの日は稽古に熱が入ると一刻半も踊りづめたのであった。結果、「今日はここまで」と言われた時には午後の琴の稽古の時間が迫っており、お藤は利松を急かして人形町の踊りの師匠の所を休む間も無く出たのである。
 帰途に着いて四半刻ほど経った。ちょうと八ツ(午後二時)ころであり、盛夏の日の光がギラギラと容赦なくお藤に照りつけていた。お藤は歩きながら何度か目眩を感じたが、それは自分の心の弱さだと恥じてむしろ歩みを早めた。ところがそうこうするうちに、俄に嫌な浮遊感を得たと思うと視界がぐにゃりと歪んで暗幕でも降りるようにまぶたの方から暗くなってきた。見上げれば黒い空に日の光だけがいよいよ強く照りつけている。お藤は後ろを歩く利松が水筒に水を入れて持っているはずだと思い出し、「利松、水を」と声をかけた。手渡された水筒の栓を抜いたとき、五間ほど先の赤松の裏側に老爺がうずくまっているのが見えた。お藤は水を飲むのをやめ水筒を利松に手渡すと「利松、あのご老体に水を飲ませてあげて」と言った。利松が「ご老体? どこにいますか?」
「あの赤松の裏側」
「裏側… ですか… でもお嬢さまが…」
と利松が言うのを右手で制してお藤は「早く」と急かした。利松は言われるがままに赤松の裏に回ってみると確かにそこに町人の老爺がうずくまっていたので声をかけて水筒の水を飲ませた。老爺は袖で口を拭くと「家はすぐそこなんですが、立ちくらみがして…」と言いながら利松に何度も礼を言うので利松は「礼なら私ではなくお嬢さまに言ってください」と言ってお藤の方に振り返ったちょうどその時、お藤はひざが折れるように路上に倒れるところだった。利松は慌てて駆け寄ってお藤を揺すりながら名を呼んだが、もうお藤は気を失ってしまっていた。今で言うところの熱中症であった。そうしてお藤は不思議な体験をした。

 ………

 同じ頃、蔦屋お芳は寺子屋で習字の稽古をしていた。その日は少し袖丈の長い着物を着てきてしまい字が書きにくく、失敗したと思っている時であった。誰かが助けを呼んでいる。そんな声を聞いたような気がして顔を上げた。寺子屋の師範にちょっと外に出てくると言い置くと往来に出て耳を澄ませた。確かに微かな声がする。助けを呼んでいる。その声を頼りに小走りに走っていくと、水運用の堀のほとりに出た。見れば白い子猫が岸から三尺ほどの所に出た杭の上で立ち往生していた。どうしてそんなことになったのかは分からないが、子猫の力ではとても岸までは跳べまい。あんな痩せっぽちの子猫では泳ぐことなどさらに無理であろう。周囲を見渡してみたが、橋渡しにするような板も杭もない。人に頼もうにも忙しそうに荷を運ぶ行商人や走り去ろうとする飛脚がいるだけで力になってくれそうな大人はいなかった。そうこうするうちに子猫は意を決して岸に跳ぼうと身構え出した。
 お芳はもう自分が岸ギリギリの所で子猫を受け止めるしかないと覚悟を決めた。堀際のぬかるみに足を取られながらもなんとかしゃがんで足場を決め、左手で近くの草を掴み、身を乗り出して子猫に右手を差し伸べた。「さぁ、思い切り跳んで!」お芳がそう叫ぶと子猫は二、三度腰を振ったかと思うとお芳の手に向けて跳躍した。子猫にしてはよく跳んだが、それでも届かないと思った。お芳は右手を振って宙にいる子猫に自分の袖を差し出した。子猫も精一杯前脚を伸ばし、前足の爪が袖にかかった。その手応えを感じ、お芳はそのまま子猫を自分の後まで振り飛ばした。お芳は子猫が器用に陸に着地するのを視界の端に見たが、その時、堀の真ん中辺りで一匹の鯉が跳ねるのと同時に左手で掴んでいた草が切れて世界がぐるっと回転したかと思うと、そのまま頭から堀に落ちた。変な向きに落ちたので息を吸うタイミングを誤り、落ちると同時に肺に水が入り、しまったと思ったのを最後に水中であっという間に気を失ってしまった。そうしてお芳も不思議な体験をした。

 ………

 やはり同じ頃、お仙は鍵屋の奥で団子作りを手伝っていた。前の日の晩、店を終えて帰ってきた五兵衛が店の団子を作るお清婆さんが腰を痛めて当分動けないから手伝ってくれとお仙に命じたのだ。お仙はそれまでにも店に出て茶くみ女の見習みたいなことは何度かしていたが、一人で団子を作るのは初めてであった。五兵衛にしても年端もいかないお仙に火や湯を扱わせるのが心配ではあったが、急なことで他に当てがあるわけでもない。よく教え込んだ上で、自分がちょいちょい見に行けば大丈夫だろうと判断したのだった。
 お仙は慣れないながらも一生懸命に教えられた通りにやり、なんとか団子を作っていった。そうして少し慣れてきたと思い始めた時だった。ふと気づくと湯を沸かす竈門の火が大分弱くなっていた。火勢を上げようと薪をくべたが薪はなかなか燃えてくれず火は大きくならない。そこで藁を一掴み竈門に入れてみたが、その藁は慣れない水仕事ではねた水がかかっており、すぐにもくもくと煙を出し始めた。お仙は慌てて煙ギリギリまで竈門に顔を寄せて一度二度と藁の下あたりに息を吹きかけた。やや効果はあったがまだ不十分だったので、さらに強く息を吹きかけようと思い切り息を吸い込んだその時、藁の前にくべた薪が小さく爆ぜて濃い煙がお仙の顔を直撃し、お仙はしこたま煙を吸い込んでしまった。激しく咳き込みながらその場にへたり込んだ。かろうじて竈門からは離れたが、激しく咳が出て全く息が肺に入って来ない。それは単に煙に咽せただけではなく、湿った藁の不完全燃焼による一酸化炭素中毒でもあった。とにかくお仙は咳き込みながら、次第に視界が暗くなり、やがてその場で倒れて完全に気を失ってしまった。そうしてお仙も、世にも不思議な体験をした。

 ………

 お仙がふと目を覚ますと、そこは極彩色の花々が咲き乱れる野の小道で、お仙はその真ん中に立っていた。


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