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【小説】 西暦2000年、渋谷まで


どうせなら、未来を読む能力がほしかったな。良いも悪いも要るも要らないも、躊躇わず振り分けていけるような、感覚のセンサーなら持ち合わせているのに。
十六歳。知らない人の車に乗ると、浜崎あゆみの曲のイントロが結構な音量で流れだした。運転席と助手席の窓が全開。
「恥ずかしいんだけど」条件反射的に怠さがやって来る。けれど、美香の声量はあゆの高音にかき消されて、隣で脚を投げ出している綾にさえ届かないみたいだった。
夜の帳が下りた国道を、浜崎あゆみの歌声が駆け抜けている。宣伝カーみたいで冷める。渋谷の街を泳ぐように走るそれが頭に浮かんだ。うらぶれたこの町には、タワーレコード渋谷店も渋谷PARCOも、SHIBUYA109もないけれど。
たぶん彼らは、同乗者である美香たちよりも、この町に音楽を聴かせたいのだ。心の中で溜め息を吐いて、大人しくシートに体を沈めて、窓の外を移動する夜空を眺めた。ありふれたチェーンの飲食店も量販店も、遠くのショッピングモールの灯りも追い越す。退屈で、退屈しかない。
不意に、綾が美香の制服のシャツの左袖を引っ張った。「つまんないから降りよ」と、耳元に顔を寄せて言う。さすが友達。
身を乗り出し、美香が助手席の男の肩をたたいた。弾かれたように振り向いた男が、んー? と首を傾げる。
「ねえ、ごめん。トイレ行きたいー」
声を張る。
「なに? トイレ?」
「そう」
もう一度、声を張る。
今度は助手席の男が身を乗り出し、運転中の男に「トイレだって」と伝言した。
「コンビニ寄るわー」運転席の男が怒鳴るように言い、「うるさ」と綾が微妙に笑ったけれど、届かなかったのか苛立ったのか、前のふたりは反応しなかった。
無駄なほど広くて暗い駐車場の隅でコンビニは小島のように佇んでいる。
あゆの歌声が途切れて、四人で車を降りるとようやく解放された気分になった。
二時間ほど前にファミレスで声をかけてきた自称大学生の彼らは、見た目もヤンキーじゃないし、車も親の所有物だと素直に話していたし、魅力はとくに感じないけれど、普通だった。あと、奢ってくれた。
もともと一期一会のつもりだったから、連絡先は教えていない。喋っていてまあ笑えたから、今日だけ遊ぶ相手として無害だと感じたのだ。だから「カラオケ行かない?」という誘いには乗ったけれど、車に乗ってみると羞恥心のツボが合わなかった。
店舗のすぐ傍に、煙草の吸い殻が丸く集まって落ちている。いかにも地元らしいコンビニ風景。ここに溜まる彼ら彼女らはきっと、遠くへ行きたくないのだと、美香は思う。
梅雨の湿気とは無縁のコンビニの店内は少し涼しすぎた。
交代でトイレを借り、飲み物を選んで購入したあと、美香と綾は手を繋いで雑誌コーナーで待っている自称大学生たちのもとへ向かった。
「お待たせ〜。パパが迎えに来るみたいだから、やっぱ今日は帰るね」
綾が突然、そう宣言する。当然、大学生たちは面食らった顔で、「は? 行こうよカラオケ」「いきなりそれはないでしょ」などと粘るけれど、怯まない。
「んー。じゃあ綾の代わりにパパに電話して?」
「綾のパパ、超怖いもんね。美香には無理」
ふたりで慣れた芝居を打つと、彼らは怒ることなく諦めてくれた。ほらね。美香たちは、やっぱり男を見る目がある。
大音量の浜崎あゆみが走り去るのを確認して、「だからうるせーっつってんだろ」と綾が捨て台詞を吐いた。
それから本当に、家に電話をかけた。綾の親は優しい。「過保護なだけ」と怠そうに綾は言うけれど、お願いすれば小言も言わず迎えに来てくれる。
「美香どうしよ、うちのパパ、まだ帰って来てなかった」
「まじか。うち頼んでみる」
美香が家に電話をかけると、姉の恋人の智樹が出た。姉と同じ大学に通う智樹は、しょっちゅう家に来ている。
「人の家の電話に出んなよ」
「あ、美香ちゃんか。口が悪いなぁ」
「ちょうどよかった。美香いま友達といるんだけど、智樹、迎え来てよ」
「俺、今、焼肉食べてるんだよね」
「そこ、美香ん家だよね。ってゆーか、美香のいない日に焼肉とかマジありえないんだけど」
「大丈夫だよ。美香ちゃんの分も、ちゃんと俺が食べるから」
「は? ふざけんな。智樹『遠慮』って知ってる?」
世渡り上手な智樹は、美香の親にすっかり気に入られている。
「智樹が来ないなら、ナンパ待ちして適当な人に乗せてもらうから別にいいよ」
「すぐ人を脅すんだから」
綾と並んでファッション誌を数冊立ち読みして、欲しいアイテムを抜粋したり、下半期の運勢のいい部分だけを暗記しながら智樹を待った。立っていることに飽きてくると、店の真正面にある駐車スペースのブロックに綾と座り込んだ。
智樹が姉の車でやって来た。
「遅かったじゃん」
「『ありがとう』の聞き間違いだよね。あ、美香ちゃん歩いて帰る?」
「智樹さん、ほんとすみませ〜ん」
代わりに綾がへらへらと謝ってくれて、後部座席にふたりで乗り込んだ。カーステレオから美香の好きなSUPERCARが流れている。
「可愛い声〜。なんていうバンドなんですかぁ?」
綾が智樹に話しかける。
「SUPERCARだよ。ありがとう。梨香の好きなバンドなんだ」
バックミラーで確かめなくても、智樹が今どんな表情をしているか、美香にはわかる。
「『ありがとう』だって」
綾は智樹にもしっかりと聞こえるように、でも美香に話しかける。「美香の姉ちゃん、超愛されてるじゃん」
姉はミキちゃんのボーカルがとくに好きで、美香はナカコーのボーカルがとくに好き。SUPERCARは姉妹そろって好きなバンド。けれど智樹にとっては、「梨香の好きなバンド」。
「あれ? 急に大人しいんですけど」
そう言って綾が美香を覗き込むから、「ねーむい」と薄目にして見せた。

月曜日の朝、綾が大胆な日焼けをして学校に来た。最近の口癖が「日サロ行きたい」だったから、美香は一目見て察した。それは担任も同じだったようで、「ホームルームのあと、ちょっと職員室まで」と呼ばれていた。
「日サロの何がいけないの?」と立腹しながら教室を出た綾は、明るい顔で戻ってきた。「家族で沖縄に行ったんです」で押し通せたらしい。
「あー、渋谷行きたい」
「美香も。なんなら制服で行きたい」
「え、待って、放課後? それ以上の青春ある?」
「最高の青春」
「行こ!」
「片道二時間かかるけど」
「だめ、もう制服で行きたい」
「でもなぁ」
「ちょっとしか居られなくてもいいじゃん!」
「美香、今あんまりお金ない」
「そんなのパンツ売ればいいじゃん」
「売ったことないじゃん」
「ないけど」
「ブルセラかぁ」
「決まりでしょ!」
美香たちの通う女子校は、比較的偏差値が低く、制服が可愛いく、顔も可愛い子が多いと評判で、近隣の男子校生や大学生たちにモテたりみくびられたりしている。
男の子に呼び止められることには慣れてしまっていても、パンツを売ることを想像すれば緊張した。

午後の選択美術をサボって、ふたりで電車に乗った。たぶん一日の中で、いちばん時間の流れが遅い時間帯の車内はがらがらだった。
乗り物に乗ると、こっそり風景を見ようとする。こどもの頃は、空に興味があった。

スクランブル交差点を渡るとき、「叫びたい」と綾が言ったので「それはやめて」と笑った。ふたりして興奮していた。
当たり前だけれど、いろんな制服の女の子がいて、やっぱりクラスメイトたちとはスタイルも髪型も制服の着崩し方も違っている。センター街でギャル雑誌の撮影に遭遇して、綾がうらやましそうに見つめていた。
美香は時代の兆しに沿って紺のハイソックスを履いているけれど、綾は今もルーズソックスだ。小学生の頃からギャルだったという綾は、コギャルになることを夢見ていたらしい。だけど平日の渋谷はもう、センター街を抜ければ完全に清楚系に押されていて、ブームの終わりを肌で感じる。
「日サロ行ったばっかなのに……綾ダサい」
悲しい現実を目の当たりにしても、その声は明るさを失わない。美香は思いっきり笑った。
「そんな笑う? おまえ、今その通りって思ってんだろ」なじられても、可笑しくて止まらなかった。
「あー、笑った。涙出たわ」
「マジふざけんな」
「どうする? パンツ売りに行く?」
「もうどうでもいい」
「美香スコーン食べたくなっちゃった。『人間関係』行って考えよ」
「やだ。109行こ」
「お金ないってば」
「じゃあ、パンツ売ろ」
「うちらって馬鹿?」
「あー、渋谷楽しい」
喋りながら、ブルセラショップも『人間関係』も通り過ぎてしまった。そうしていつもと同じようにマクドナルドに入ってしまい、さらに喋って時間が過ぎる。
途中で一度、スーツ姿のいかにもなおじさんから「ね、君たちいくら?」と尋ねられたけれど、「は? いきなりいけると思ってんなよ」「雑なんだよ。15万」と、睨みながら返事をすると、背中を丸めて逃げて行った。爽快。
109で綾がキャミソールを一枚買った。
楽しいことを毎日探している。
「美香バイトするわ」
「急に?」
「渋谷通いたい」
「じゃあ綾もするわ」

綾は渋谷を「世界一楽しい」と言って譲らないけれど、美香は本当はどこでもいい。
バイトはするけれど、今度はパンツだって売るかもしれない。

二十一時過ぎに地元に着いて、ロータリーで綾と別れた。綾はパパの車で帰って、美香は今日も智樹を待っている。家に電話をかけると、居たから。
満月だった。
しばらくすると智樹が、いつも通り姉の車でやって来た。助手席に乗り込むと、椎名林檎の『依存症』が流れている。
「美香、この曲が椎名林檎でいちばん好き」
「俺も」
「椎名林檎はさぁ、椎名林檎の人生を想像させるよね」
思ったことを普通に話すと、智樹が吹き出した。
「なんだよ」
「いやあ、意外と深いこと言うから」
「美香のこと馬鹿にしてる?」
「してないよ。ほんとだ、と思ったよ。苦しくてたまらないくらい、誰かを好きになったことがあるんだろうね」
自分の方が深いじゃん、と思ったけれど、言い返さなかった。
横顔に目をやると満足気で、なんだか腹が立つ。







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