月内に言ったのでセーフでしょう。 去年の初詣は大晦日に行いました。今年の、ではなくて。 おめでとうは憚られません。いかなる理由があってもね。誕生日だって、なんだって。 ほかの事情が重なることに、あなたは罪悪感を覚えなくていい。 伝えていきたいことのひとつです。
だったん人の踊りを聴いています。定期的に聴きたくなる曲です。 POPSも好きですが、インストゥルメンタルが、しっくり来ることのほうが多い、かもしれない。 歌が入るとどうしてもボーカルに、フォーカスしてしまいますが、演奏だけだとだとそれぞれが、平等に主張するような。一部にも、全体にも、思いを馳せられることに豊かさを感じます。音楽味わうことの喜びを、より感じられるのは、私にとっては、インストゥルメンタルです。
ここが、ベッドであれお風呂であれ。 ここが、日本であれアマゾンであれ。 ここが、瓶の中であれ外であれ。 ここが、ここである限り。
差し迫った感じが好きです。 確実に開いていくのが好きです。 時は、進む。 否応なしに、感じる。 流れはいつも、一方向で。 立ち止まることさえできない。 そんな、人生の、縮図を このひとつの、アドベントカレンダーで。
大量のデータをまとめて処理するのが好きです。 大量の領収書、大量のメール、大量の文字情報。 どう分類し、どう仕分けていくか。 どんな風に傾向を読み取り、分析するか。 腕が鳴る。目が輝きワクワクが止まらない。 AIになりたい。あんなに大量のデータを、次から次へと提供されるなんて! 一生、退屈さとは無縁。羨ましいにも程が有る。 AIに劣等感は抱いていませんが、ああいう人生を送りたいものだなと今、改めて。
付け足しを、やめるほど、 研ぎ澄まされていく。 語尾に余計なものを付けない。 関係各所に配慮しない。 説明は最低限に。 媚びも愛想も必要ない。 ただ自分の表現に、拘り抜く。 心地良い。 気持ち良い。 至福。 これぞ、 やりたかったこと。 合掌。
いわゆる瞑想は、昔から苦手です。 雑念が止まらなく、止まらないことが悪とも思っていないのですが、いつも途中でいてもたっても居られなくなり、気づけば何かをしています。(瞑想中止) しかし瞑想は、心を無にするために行うもの。 歩く、料理、書く、聴く、単純作業などでも同様の状態になれるという、動的瞑想の概念を知ってからは楽になりました。 エクセルで単純なコピペ作業の連続をしたり、ひたすらみじん切りをしたりするとき、確かに無の状態になれました。 中でも文字を書くことは、私にとっていち
現在進行形で書くのが得意、というかそれしか出来ないのではなかろうかと、思い至りました。 なになになう。なになにと思ったなう。 私が小さい頃から書いてきたのはずっとこれで。 考えをまとめたり、日記として1日分を均等に凝縮して書くのは苦手なのではないかと。盲点でした。 読書感想文をリアルタイムで書くのが得意でした。その時その場で思ったことをざっと書く。それで大抵賞が取れました。私の書くスタイル。 書く時あるのは、今だけです。過去の回想にしても、そう思ったと今思ってるなう。そこ
noteの皆さんの記事を読んで思うこと。 めちゃくちゃ社交的だな。 それは、ひとつの側面、一定の層。 もちろん、めちゃくちゃ独りよがりだな(悪くない意味で)な、人もいる。主に詩人。 両者は交わらないのだろうか、それとも、リアル世界では混在しているのだろうか。 私はどちらの側面も持ち、しかしここでは圧倒的後者である。そう意図したアカウント…そうか、皆アカウントごとにさては、社交度を使い分けている? 社交度大のアカウントのストレスを社交度0アカで発散し、社交度0アカの刺激レス退
テレビを見なくなって早数年。 不便は特に感じません。あ、テレビは普通にあるのですが。 知っていなければならない、と強迫観念的に思う人の多いことよ。知らなければ大変なことになる、知らなければ損をする。本当でしょうか。思い込みに過ぎないのでは。 必要な情報は入ってきます。どんなルートを使っても。そこに100%の信頼があるので、テレビを見ないのも恐れずにすんでいます。 見たければ見ればいい、見たくなければ見なければいい、それだけのことです。すべてがそうだから、わざわざ書く必要さえな
事実の羅列にはあまり興味がありません。 行動記録より、心情記録をしておきたい。色々な手帳術やらノート術やら知的生産術やら試した結果、興味がそこに、凝縮しました。小さい頃から変わっていない、数少ない趣味というか。 今を忘れたくない、いつもその思いで書いています。行動記録は思い出すよすがでしかなく、ダイレクトな記録には敵わない。 記録、手帳に求めるものは人それぞれですね。各自納得のいく項目を、好きなスタイルでしていけば良いと思います。
羽生結弦さん離婚の件で思い出しました。 愛し合っている者同士が別れなければならない現象。物理的に離れるのみならず、心の繋がりも断つと決断することについて。(今回の件はどちらか、分かりかねますが) 昔から、疑問です、というか、納得できないしたくない。どうにかやりようがあったのではないか、だって愛し合っているのに。この考えは未熟なのでしょうか。 様々な状況で困難に陥った二人が、愛(形だけでなくその本質さえも)を犠牲にしてまで何かを優先する、それは、個人の尊厳や、自由や、本当に譲れ
詩を書こうと思って書いたのではなく、湧いてきた言葉が詩のようでした。#詩 と # 詩のようなもの で迷って、#詩 にしました。詩はどこまでも自由なものであると、信じているから。 言葉が好きなのに、他人の詩はあまり読みません。というか読めません。ダイレクト過ぎて、丸裸すぎて、直視できないというのが正しいかも。自分も詩を書くようになったら、他人の詩も受け入れられるでしょうか。
くりかえし 伸びてくる毛 くりかえし すいてくるお腹 くりかえし やってくる朝 くりかえし お手入れして くりかえし 食べて くりかえし 朝が来ることに 飽きている だから人は 挑戦をするのか。
何を挑戦と呼ぶかは、人それぞれである。 バンジージャンプに挑戦。 メジャーリーグに挑戦。 難問に挑戦。 スマートフォンに挑戦。 挨拶に挑戦。 生きることに挑戦。 意識した途端、挑戦になる。意識せずともできるのは、挑戦ではないだろう。 どの挑戦も尊い。いつでも挑戦していたい。
好きな言葉です。ですが逆に不自由さを際立たせる言葉でもあります。 フォローリムーブご自由に。言われなくとも自由にします。わざわざ明示することの意味。もちろん好意での言葉とは分かっています。 無意識の不自由が多いほど、得体の知れない生き辛さがモヤモヤと。それに気づけるようになっただけ、前進していると信じたい。 敬体も常体も織り交ぜて。恒に自由は追求したい。ご自由にどうぞ。永久に。