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"ルール"について思うこと

街中に流布したルールそれはそのルールのためのルールであった

中澤系『uta0001.txt』

どうしてこんなに「遵法意識」が低い人間に育ってしまったのか。はっきりとした理由はわからない。

就活の適性検査で出される「規律やルールに従う人間である」のような設問では、若干の申し訳ない気持ちになりつつ「どちらかといえばそうである」くらいの選択肢を選んでいる。

振り返ってみると小学生の時からその傾向はあった。
小学校では毎日下校の前に「帰りの会」でプリントが配られ、先生がプリントの内容を読み上げたあと「帰ったらお母さんやお父さんに見せること」と生徒に言って、解散という流れだった。
この「先生によるプリントの読み上げ」という工程に、強烈な違和感を覚え始めたのは4年生ごろだっただろうか。当時、中学受験のための塾で勉強していて、周りより多少勉強ができたし文章も読めた自分にとって、この時間は、いつからか強烈な苦痛を伴う時間になっていた。
目を通し、内容を理解するのに10秒しかかからない内容を、先生が子どものために3分も5分もかけて読む、あの時間。何も言わずに大人しく座って先生が話し終わるのを待っている同級生の顔を見て「なんでこんな拷問に平然としていられるんだ?」と驚いた記憶さえある。
今思えば、先生の対応は小学生に対するものとしては"真っ当なもの"だと、いちおう頭では理解することができる。が、中学生になっても似たような時間はあった気がするし、小学生の知能を侮っているだけな気もする。

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何のために存在しているのかわからないルールは、存外世の中にたくさんある。
校則はその最たる例だ。ご多分に漏れず、自分が通っていた小学校にも「鉛筆の代わりにシャーペンを使ってはいけない」という校則があった。
しかし塾ではシャーペンを使って勉強していたし、自分としてはシャーペンの方が握りやすく書きやすかったため平気な顔をして小学校にシャーペンを持ち込んでいた。そして見つかっては注意され、鉛筆を使うことを強要された。
なぜ義務教育の機関に不合理なルールが設けられているのか、それは「頭を使わずに上からの命令に従う訓練」を積ませ、そのようなお利口で都合の良い人間を育てたいからのように思える。

そう考えた時に、自分のこの性格を作った要因としてひとつ思い当たるのが、父がナチスに強い関心を持っている様を幼い頃から見て育ったことだ。
私の父は『映像の世紀』のような過去の歴史を扱った番組、その中でも好んで第二次世界大戦の特集、ひいてはその時代に台頭したファシズムとその先導者についての特集を見ていた。人間の集団心理、人間がひとかたまりになったとき、それを構成する個人では絶対にすることのできない野蛮で残酷な行動にさえ出てしまう、そのシステムに興味があるのだろう。
幼い頃から父に独裁者の恐ろしさを説かれていた私は、ルールを疑うようになっていたのかもしれない。自分の行動を制限するものに対して、その内容に納得できない場合、従う必要はないという意識がどこかにある。
あまり誉められたことではないが、赤信号を無視したり他の人が人目を気にしてしないようなショートカットをすることもある。
反対に、ゴミの分別はちゃんとしたりポイ捨てをしないように気をつけたりもしている。これらのルールがなぜあるのか、その合理性に納得がいっているからだ。

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ルールについてより考えさせられるきっかけとして、コロナ禍があった。
「新型コロナウイルスの流行、感染拡大の防止」を大義名分に、世の中にそれまで当たり前のものとしてあったたくさんのモノ・コトは一変した。
街からは公衆のものとして設置されていたゴミ箱が大量に撤去され、BOOK-OFFやファミレスの営業時間は「不要不急の外出自粛」に資するため、大幅に短くなった。これらはコロナウイルスの流行がほぼ去った今でも続いている。その方が、ある人たちにとっては都合がいいからだろう。そして、そのことについて気に留めていない人が多数派だからだろう。しかし、私にとってはとても悲しいことである。
また同じ理由でコロナ禍に使用禁止とされていた「ハンドドライヤー」(風を使って手についた水を乾かすアレ)は、いつの間にかしれっと使えるようになっている。本当にあの機械が、手に雑菌がつく原因になったりウイルスの感染の拡大に繋がるものなのであれば、コロナウイルスの流行が落ち着いた後も使わない方がいいのではないだろうか。なぜ、ハンドドライヤーは復活し、BOOK-OFFの営業時間は復活しないのか。なぜ、誰もそのことについて疑問を抱かないのか。

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何も考えないで、ルールに黙って従う人が多いこの国では、日々、不合理なルールが作られ、世の中に送り込まれている。消費税の増税、インボイス制度。それを良しとする国民に支えられている今の政権は、平和のための憲法9条の改正、緊急時に政府の権限を強めるための緊急事態条項の制定をするべく動いている。
ルールを守ることは大切なことだ。しかし、それはルールが「まとも」である場合である。どのような人が、どのような目的のもと、どのような手続きを踏んで、どのような内容のルールを定めているのか。それを理解した上でルールを守ることが遵法だとしたら、出されたものを何も考えずにただ黙って飲み込むこと、これは奴隷根性なのではないか。

遵守(じゅんしゅ)と殉死(じゅんし)、この二つの言葉は響きが似ている。が、その意味は大きく異なる。
前者は「きまりを守ること」
後者は「主君や夫(=立場が上だとされている者)などの死を追って臣下や妻などが死ぬこと。または強制的に殺されること」だ。
まともなルールと、「ルールのためのルール」= "従属関係を維持・再生産する"ためのルールを区別すること。たとえ世間にはおかしい人として見られ、笑われるとしても、1人の人間として、あるいは法学生として、この意識を忘れたくないと思う。

なぜなら、いつだってルールは私たちのためにあるのであり、私たちがルールのためにあるのではないのだから。

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