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「全部"張りぼて"じゃない?」と両親に言ったわたしの話。

なんの了承もなく、人様の大切な記事を勝手に引用して申し訳ないが、「てけみんさん」という方の note が妙にわたしの心に引っ掛かった。

わたしは自分が上げた note に、スキやコメントをしてくださった方の note をなるべく拝見しに行くようにしている。
てけみんさんの note に出会ったのも、そんなきっかけだ。

どうやら彼?彼女?は、自作でインストの曲を作っているらしく、聴けばなんとも心地の良い楽曲ばかり。ご本人がそれを意図しているのかどうかは定かでないが、個人的には「ヒーリングミュージック」や「メンタルデトックスミュージック」の雰囲気を存分に感じられ、シンプルに素敵だなと思った。
(わたしのVlogも、人の心にすっと入ってくるような、こういう音楽を使って作りたいんですよ。。。)

そんなてけみんさんの音楽制作は、どうやらシンセサイザー1本。いわゆる生の楽器を使わないPCの中だけで0から1を生み出す業のようである。

わたしの note ではお馴染み(?)、友人で音楽活動をしている廣井弦も、ステージ上ではギターにキーボードにドラムに、ひとりで何役もこなす姿を見ることができるが、その音楽制作の源流は、自宅の地下室に籠り、PC1つですべてを完結させる電子音楽にあった。彼もまた、音作り、音の運び、音で伝えること、伝わること、そのすべてにいつも思案している様子を伺うことができ、その意味ではてけみんさんが執筆されていた記事の内容と重なる点もあるなと、そんなことを思ったというわけである。


ところで、わたしはというと。
廣井弦の曲のジャケットを作成したり、作詞をしたりなんだりと偉そうなことをしつつ、正直音楽のことは何も分からない。だからこれ以上、てけみんさんの素敵な音楽に対してやんや言うこともできない。しかし、言葉を紡ぐはたらきが好きで、人が創る人工的なものが好きで、てけみんさんがタイトルに据えた通り「本物ではない」ものが大好きすぎるわたしだから、誰に頼まれたわけでもないけれど、わたしなりの『「本物ではない」ということ』に対する気持ちも書いておきたくなった。

本物なんてものはどこにもなくて、本物ではないことを選び続けていくことが結果として本物っぽく見えるんだよ、と。そんなやかましい話をしようと思う。


***


「本物」って、なに?

わたしの note では、くどいようにその愛を巻き散らかしているが、わたしは物心ついた頃から「ディズニー」というコンテンツの虜だった。

ディズニー映画を観に行くこと、ディズニーランドに遊びに行くこと、が、子供時代のわたしにとって何にも勝る幸せで、ご褒美だったことは言うまでもない。

が、そんな様子を見かねて、あるとき両親は頭を悩ませたらしい。
「ここまで好きなものがあることは素晴らしいが、いつもディズニーばかりで良いのだろうか」と。

映画にしろ、ディズニーランドにしろ、言わずもがなそれらはすべて人が創り出した"フィクションの世界"だ。虚構の世界にどハマりしていく子の姿を、親はどうにも訝しげに見ていたらしい。

そして「ディズニー」や「映画」の代替として、両親によく連れられて行った場所が「美術館」「庭園」「寺社仏閣」「オーケストラのコンサート」などだった。こうして文字に起こすと、何やら"お育ちの良い"家庭環境のように聞こえてしまうかもしれないが、頭痛持ちで綺麗好きな母と、屋外アクティビティが苦手な建築士の父、そんな2人の両親であったゆえ、逆にいえば、これ以上の場所は連れていこうにも連れていけなかった、そんなところである。

そして両親は盛んと言った。
「やっぱり本物は良いねぇ」「本物はすごいねぇ」「これが本物かぁ」と。
子どもながらに、その言葉の言わんとしていることは、なんとなく分かった。だからわたしも必死に、これが本物なのか…と、貴重なその体験を少しも取りこぼさないよう、全身で浴びるように楽しんだ。どの場所も、どの経験も、嘘偽りなく心から楽しめた。
しかし、疑問は膨らむ一方だった。

「本物」、目の前にあるそれを「本物」と表現されるたび、わたしは「本物ってなに?」という疑問ばかりが頭の中を駆け巡ったのだ。
そして自分の好きな「ディズニー」や「映画」と比較して、なにが本物で、なにが本物ではないのか、その線引きは分からなくなるばかりだった。


***


「全部"張りぼて"じゃない?」

あれは一種のトランス状態にも近かった。会場中の観客の拍手の音を聞きながら、ぼわーっと光る天井のライトを見上げる時間。ステージでは黒い燕尾服に身を包んだ指揮者が、何度も何度も満面の笑みで頭を下げている。
両親に連れられて何度か足を運んだ、「本物」と表現された、オーケストラのコンサート。そのフィナーレの一幕、わたしはあの時間が結構好きだった。

わたしはいち観客として、ただ座席に座っていただけに過ぎないが、すべての演目が終わってもなお、観客の誰も帰ろうとせず、ワァーっと鳴りやまない拍手の中に身を置いていると、なんともいえない満足感を得ることができた。だがそれと同時に、いま目にしている光景のすべては、その総ては、「全部張りぼてだ」という、確固たる持論を持ち得ることにも繋がった。

これはわたしの、歪な思考の産物かもしれないが、一般的に言われる「本物」というものを見れば見るほど、わたしはその嘘っぽさを強く感じるようになった。

自宅の古びたCDプレーヤーで聴くクラシック音楽が「作られたもの」と表現するならば、対して生のオーケストラは「本物」だ。ディズニーランドのシンボルというべきシンデレラ城を「偽物」と表現するのなら、モデルとなったドイツのノイシュバンシュタイン城が「本物」なのだろう。二次元のスクリーンの中だけで動き回る役者を映した映画を「嘘」と言うのであれば、実際の舞台で舞う演劇が「本物」というに相応しい。
だがその「本物」を享受すればするほど、むしろそれが虚像で、それを模して新たに発展したものこそが本物なのではないかと、そんな逆説的な考えに至った挙句、導き出した持論は、「じゃあ全部、張りぼてじゃない?」ということだった。

いや、もっと厳密に言うならば、全部本物であり、全部張りぼてでもある、ということだ。人が手を下したものに「本物ではない」と評価をするのであれば、この世のものは大概が本物ではない。逆に言えば、そんな張りぼての中に、何らかの「本物」を見出すのであれば、森羅万象すべてが本物である。
そう言葉で表すと、なんとも淡泊なものに聞こえてしまうかもしれないが、わたしはこの感覚を持ち得てからというもの、あらゆる文化が、人が、創作物が楽しくなった。

本物とか、本物じゃないとか、そんな評価軸はどこにも存在しないし、存在してなくていいんだよ、と思えるようになったのだ。


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「本物」とは皮肉なもので。

この話で皆さんに伝えたいのは、わたしの大好きな「ディズニー」や「映画」が「本物」だという話ではないし、逆にわたしが経験した「本物らしい」それが実は偽物なんだ、と、そんな話をしたいわけでもない。

ただとにかく、本物とかどうとか、そんな個人主観の線引きに左右されて、享受できるものの取捨選択をするのは勿体ないよ、本物かどうかなんて判断しないほうがきっと豊かだよ、ということなのである。

これは「本物志向」というものの考え方における、"抜け穴"にも通じる話だと思っているのだが、本来「本物」を知るためには数多くの偽物を体験しなくてはならないはずのに、「本物志向」を掲げると「本物」にしか出会わなくなるから結果として、「偽物」だらけの志向が出来上がってしまう、というロジックなのである。

世間一般に言われる「本物」の実態は、誰かが見定めた「お墨付き」というものであったり、「セレクト」である場合が多い。それならまだ良いが、下手をすると、そこには何の定めもなく、ただ形式的に綺麗なもの、ハンコを押しただけのもの、「本物」って書いてあるから「本物」であると表現されているものに多く溢れてしまっている。

だからてけみんさんが、自身の note の中で「本物」になり過ぎることを恐れている(意訳)、といっていたその気持ちには痛いほど共感してしまう。そしてこの恐れを持った人たちにこそ、わたしはクリエイターと自称して欲しいと思っているし、「本物ではないこと」を創り上げたものにこそ、真の本物を見出すべきだと感じているのだ。

わたしの愛するディズニーも、映画も、演劇も、コンサートも、美術も、音楽も、建築も、園芸も、小説も、学問も、神でも、何でも、すべて張りぼてなんだろうと思う。本物なんてものはどこにもなくて、本物ではないそれらを如何に線引きせず、食わず嫌いせず、享受して、自らも創造して、接していくか、それが日々のおかしみであり、楽しみであり、善い生き方なんて言えるような気がしているのだ。

さすればきっと、人は「本物だね」と評価するのであろう。皮肉なことに。

だからわたしは、これからも「本物っぽい」人生を歩みたいと思っている。やかましいことに。


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