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[散文] 随筆とエッセイの違い

 エッセイという単語を初めて知ったのはいつだったかな。小学生とかそのくらいの歳だったような。自宅か親戚の家か散髪屋の待合かどこか場所は定かではないけど、大人向けの週刊誌の表紙か目次で見たのが最初だった気がする。正確なところは全く覚えていない。

その時の「エッセー」という間の抜けた音の響きが子供ながらになんだか軽薄に感じて、大衆向けのくだらない文章という印象(今思えば偏見)が記憶の片隅に残っている。当時その週刊誌に掲載されたエッセイには目を通してすらないくせに、週刊誌特有の乱雑なレイアウトと誇張気味の文字フォントの印象によって「エッセイとは軽薄な文章である」という偏見を残したままこの歳になってしまった。その後、たくさんの作家のエッセイを読んでその奥深さを知った今でさえも、「エッセー」という音の響きに対する偏見がわずかに残っている。

 それで、随筆という単語を初めて知ったのはいつだったか。エッセイを知ったタイミングより後だった気がする。恐らく中学生か高校生の頃に、学校の国語の教科書で見たのかな。最初に知ったタイミングだったかどうか確証が持てないが、教科書の作品種別だか作者紹介だかで随筆という単語を見たという漠然とした記憶だけ残っている。正岡子規の作品だったような気もするけど、全然違うかもしれない。ただ、古典文学に近い権威的な音の響きを感じさせるのが随筆に対するイメージだ。

 こんな具合なので、散文的なものをちょっと自分でも書いてみるかと思い立って誰かに読んでもらうときに、「これはエッセイです」と宣言するのか「これは随筆です」と宣言するのか、非常にどうでもよい部分で悩むことになる。
ざっと調べたところによると「随筆」は体験した事実に対して筆者の感想・意見を文章にしたもので、「エッセイ」は事実の体験はなくてもよくて筆者の思いだけを文章にしたものらしい。この定義によれば、自分の書いているこれはエッセイになるだろう。でも、この歳までこじらせてしまった「エッセー」という音の響きへの偏見は簡単に消えてくれそうもない。ここは、一般的な定義を覆して、カッコイイ音の響きの「随筆」として発表してしまおうかという気持ちになっていた。

 作品タイトルのラベルに「随筆」と書いたあとで、やはり事実と異なるのは気が引ける、どうすべきか、悩んだ末「随筆/エッセイ」と併記してしまうのはどうかと思いついた。早速タイトルに書いてみたが、なんだか冗長で余計ダサい感じになった。もはや何が正しいんだか判らなくなってきた。途方に暮れつつも、インターネットの検索で「随筆」「エッセイ」から関連用語として出てきた「散文」を引いてみた。散文とは、小説や評論のように韻律や句法にとらわれずに書かれた文章だそうだ。つまり、随筆もエッセイも散文に含まれる。ここまでは成程だが、解説文を読み進めると思わぬ光明が差してきた。散文的という言葉は「味気なく、情趣が薄い」という意味があるらしい。これこそ自分の駄文をラベリングするに相応しい説明である。

どうでも良いこだわりとくだらない悩みに時間をかけながら推敲した結果、「散文」という音の響きに辿りついた。「こちらの作品は散文です」と言うと割としっくりきた気がする。

 ここまでの話を冷静に振り返ってみると「エッセイ」という単語に対しては、自分の子供の頃の偏見の根っこがまだ残っていることに改めて気付かされた。子どもの頃に植え付けられた偏見の種は、どこかで気づいて取り除く作業をしない限りは勝手に消えてくれることはない。しかも、立派に成長してしまった後では、完全に取り除く方法がなかなか思いつかない。何なら、取り除く必要性すら感じられなくなってしまっている。「随筆」への謎の憧れと、「エッセイ」への謎の偏見は、恐らく私の中でこのままずっと存在し続けるだろう。


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