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美貌もだんだん古くなる(容姿コンプレックスOrigin26)

死ぬまで自信が崩れなかった母

 あたしの母親は、自分の容姿に対する自信に恵まれており、あまり”コンプレックスには恵まれない”まま一生を終えたようです。あたしが母の自信のありようを冷静に観察したのはまだ彼女が生きていた15年前、母が75歳の頃ですんで、そういう年齢の女性を思い浮かべてください。そのころ彼女は大病をしまして、長女の私は手術やら療養やらの間、しばらくまた密に母親と関わっていたのです。
 彼女は自分はきれいなばあさんだと思っていたかと思います。

 あたしは非常に優しい(?)娘なので、それを「ぷぷぷ」と笑ったり戒めたりしたことはありません。思春期の頃から一回もないです。娘ってのは母に何かと厳しいんですけど、この点についてはあたしは違う(笑)。
 幻想でもなんでも、お墓まで持って行っていただきます、と思っていまして、その通りに彼女は死ぬまでそのままでした。
 だって、どうせ人間は幻想の中を生きているのです。うまく幻想を壊さずに生きていけるというのは、幸せであった証拠ではないかしら?
 それは言い換えれば”客観性にも恵まれなかった”ってことかもしれませんが、そんなことよりも幸福の方が大切じゃありませんか。

 しかしそのころ、当時47歳のあたしは、11歳の娘と話していてはっとしたものです。
 娘は自分のじいじとばあばの「なれそめ」に興味があって、いろいろと質問をしていたのですが、その中で、あたしが、「ばあばはすごくモテた人で、引く手あまたの中からじいじを選んだんだって言っていたよ」と話したときのことです。
 それに対して娘は「まさか!あんなばあばがモテるなんて!」といったのです。非常に無邪気にね。

 少女の美的な物差しは大変に未熟ですし、モテるってことの意味もわかっておりません。その物の見方の、とてつもなくへんちくりんなことについては、ここでは詳しく述べません。

 しかし、昔そこそこの美人であったことが、錯覚だろうとなかろうと、人間はだんだん老いて、見かけがあまり魅力的とは言い難い状態へと変化していくことは、確かなことだと思われました。
 11歳の少女の目からも「きれいな75歳」でいることは、まあなかなかハードルの高いことだったのじゃないかな。

 その時点で、母は確かにずいぶんと見かけが変わっていました。いつも身ぎれいにしていたし、努力していたとは言わないけど、身を飾ることは楽しんだ人です。若い時からの華やいだ感じを保っていたかと思います。
 彼女がモテていたのが、別に容姿のせいではなかったとしても、そういうのって結構重要でしょ。

まるで罪でも犯したように変形してゆく

 一方変に”客観性に恵まれてしまった”あたしは、鏡を見るたびに思っていました。
「あたしの姿は、何だか悪い事でもして、その罰をうけているかのようにゆがんでいる」と。
 昔、自分の体にこうしたゆがみがなかった頃、銭湯や温泉などで中年の女性の体を観察しながら、同じことを思っていました。「あの人たちはまるで悪い事でもしたかのようにゆがんでいる」と。

 自分もそのステージに届いてしまったのです。彼女たちがゆがみたくてゆがんでいたのでも、悪いことをしたのでもないことは、今になればわかります。

 あたしの方は、あの母の娘なのに、あんまりそうしたことに目をそむけて「このむくみもシワもたるみもくすみもなかったことにしよう」というわけにはいかないのですね。

 母にしろ、あたしにしろ、別にきれいでもそうでもなくても、世の中には影響がない程度の存在であることには変わりないはずですが、つまり背比べをする必要すらない全きどんぐりの類なのですが、ほんと、あたしって割にあわないよな。
 何でもっとノーテンキに生まれ育たなかったのかな。

 ノーテンキとうぬぼれは隔世遺伝ってやつで、娘の方には受け継がれているのかもしれません。
 あたしは彼女の勘違い(じゃないかもしれないし、そうかもしれないが、世の中にとってはどうでもいい事柄)を、最大限、壊さないように気をつけて接しております。
 自分のようになって欲しくはないからね。

 ともあれ。だれでもだんだん古くなっていくわけです。

変形率の低さは賞賛される

 尊敬する先輩が言っていたのを思い出します。
「外国にいると思うわよ。白人女性は歳を取ると本当に変わってしまうって」
 別人なんてものではない。別の動物のようだ、と彼女はいいました。

 先輩は当時60代前半だったかと思います。長くアメリカに住んで、その”変身集団”の中に混じって、「何でそんなに変わらないの。いつまでも若いの?」とひがまれつつ「それは私が日本人だから」と言っているのだそうです。
 「努力しているからよ」などとは言わない。日本女性はそうなのだ、と言う。
 胸のすくような話です。確かに世界標準ってやつをみると、日本女性って加齢による「変形率」が低めなんですよね。

 日本的な言い方すると「女を捨てない」ってやつでしょうかね?いや、きれいでいる努力を「女」の特質だなんて言わないでいてくれる?って誰かに突っ込まれそうですね。女は別に鑑賞される義務を負っているわけでもないです。
 
 それでも「美」ってのはいつだって「善なるもの」なわけです。ジェンダーを越えたところでそれは言えるでしょう。別人のように変身してゆく人たちも、「捨てた」つもりなんかないのかも知れない。「本当に美しかった」過去が、彼女たちの誇りに栄養を与え続けているかも知れないのです。

 加齢と女性性との折り合いの付け方は、だれもが共通して持つ課題です。長生きの時代にゃ課題も長びくに違いないです。
 これはこれで、思春期と番茶も出花の季節を、コンプレックスを抱えつつががっと駆け抜けるのと同等に、難しいことだと思えます。まああたしは今、その覚悟をしているところです。こういう覚悟ってね、やっぱり年を経ないと実感としてわかんないかも、です。 

 さて、母は89歳で亡くなったのですが、緩和ケア病棟のベッドの上では決められた寝間着を着ていて、お化粧もしていませんでした。それどころか時々入れ歯を外してるんでお顔も変形していました。
 でも看護婦さんたちは母が89歳だと聞いて、みんな驚き、ほめたたえてくれてました。シワが少ない家系なんですよ。皮膚がつるつるすべすべだったんだよね。

 最後まで母の自信は崩れなかったと思います。幸せなことですよ。

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