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考えなくていい

義母の入院

 ヨーコは幽霊を見たことがない、と思う。そのはずだ。そんなものは見えないほうが幸せだし、見えることとそれらに対処できるかどうかはまた別だから、「普通の人は考えなくていいと思う」とママ友のサオリさんが言っていた。考えなくていい。たぶんそうなんだろう。

 90歳になる義理の母が、心不全を起こして救急搬送された病院でのことだ。

 義母は2日の間生死をさまよったあと、思いがけず回復してきて、ICUを出ることができた。その後ほんの数日、ICUと一般病棟の中間のようなベッドに寝かされていたことがある。
 そこで、なんか変だな、と思うことがあった。

 その”中間病床”はナースセンターの奥にあって、一般の見舞客も入っては来ない。病院の人に招き入れられなければ入れないのはICUと同じ。医者やナースがPCに向かうための場所と、扉ひとつでつながっているので、何かあった時には最も迅速に対処してもらえる場所だと言える。いつも複数の看護師がベッドのそばを行き来しているので安心な、いわば守られた場所なのだ。

 その日、白い制服のナースが一人、義母のベットのわきに低くかがみこんで、寝ている義母にしきりに話しかけていた。てっきり担当の看護師なのだと思って見ていた。ただ、義母は眠っているようにしか見えず、いったい何を話しているんだろう?とは思った。

 ヨーコが見ていることに気が付くと、ナースは立ち上がって「お見舞いですね」といい、「もうだいぶ回復しましたので、病院食以外のものを持ち込んでも大丈夫です。病院のパンは少し硬くてお好みではなさそうなので、それを補う意味でも、何か食べられるものを見繕って持ってきてください」と、滑らかに話した。

 そんなに早く普通の食事に許しが出るとは思ってもいなかったので、ヨーコは驚き、いったい何なら食べてもらえるだろう?ということで頭がいっぱいになった。

 そのナースが離れて行くと、義母はすぐ目を開けた。管が外れてようやくしゃべれるようになっていた。義母と相談し、家に帰って夫とも相談し、そして翌日はプディングを買って持って行った。

そんな連絡は記録されていない

 ベッドをジャッキして、プディングを3匙ばかり食べさせたら、義母は久しぶりに甘くて美味しい、と喜んだものの、いきなり「コーヒーが飲みたい!」と言い出した。
 面会は一日1回、一人ずつで30分だけと決まっている。コーヒーを買いに行く時間はもったいない。それに、心臓の働きに問題があった人にカフェインを与えてもいいものかどうかもわからない。それで、ちょっと扉の外のナースに、尋ねてみた。

 「コーヒーは飲んでも大丈夫でしょうか?甘いものを食べさせたら飲みたいと言い出したのですが」と訊いたら、そのナースはびっくり仰天して、「ハヤシさんですよね?甘いもの?持ち込み食は禁止されているはずですが」と言った。

「でも昨日看護師さんに持ち込み食の許可が下りたといわれたのですけど」
「誰に言われたのですか?ちょっと確認します」
 ナースは看護師長も呼んで、何やら連絡事項が書かれた書類をチェックし始めた。
 二人は口を揃えて、義母は血糖値と血圧に問題があるため、治療食を食べさせてそれをコントロールしているところだから、持ち込み食が許可される可能性は大変低い、と説明した。

 担当の医師がその日は休みであったため、正式の確認は取れなかったが、連絡事項に持ち込み食の許可については何も書かれていなかった。

 じゃああのナースはいったいどうしてそんなことを言ったのか?誰かと取り違えているのか?そんな間違いは、命に関わることで、許されないのではないか?

 家族はさんざん文句を言って、今後はナースと話をしたら名前をチェックしよう、と取り決めた。
 見舞いに行く家族は夫とその妹、ヨーコとその娘、4人しかいない。交代で見舞い、グループチャットで情報を共有する。今日はこんな話をしていたとか、こんな勘違いをしていたとか、夢と現実の区別がついていないようだ、とか。

 もとより義母自身は自分の担当の看護師の顔も名前も認識していなかった。病室が移ったりして複数の人と関わっているのだから無理もない。

 義母は夢の中にでもいるかのように、行ったことがないはずの京都旅行の話などするのだった。自分の夫がすでに亡くなっていることも忘れていることがある。

面会の決まり

 翌日は夫が会いに行き、医者が持ち込み食の許可を与えた事実はない、ということが判明した。
 義母はだんだんと回復しており、相変わらずコーヒーをねだっていたが、持ち込みは一切ダメだと言われてがっかりしていたそうだ。

 ヨーコは、死にかけたぐらいの人なんだから3匙のプディングやら一口のコーヒーぐらい、いいじゃないか、と思ったけれども、それは黙っていた。
 
 翌日のこと。義妹が見舞いに行った日に、グループチャットにまた不思議な書き込みがあった。通りがかったナースに、「面会は週に2回に制限されますから、今週はもうお会いになれません。残念ですね」と言われたというのだ。

 そんなはずはない。この病院に入った時に面会の決まりについては文書に印刷されているものを渡されていたはずだ。
 一日1回、30分までで、時間は午後3時から5時半までの間。一度に会える人数も一人ずつだけど、毎日会えるという決まりだ。これが危篤の時はICUで24時間受け付けてもらえたのだが、回復したからここに移って、通常の面会ルールになったのではないか。

 「そのナースの名前は?」
 「すぐ通り過ぎてしまったから、名札読めなかったの」
 「それおかしいよ。私はとにかく明日行くよ」
 ヨーコはそう書き込み、「コーヒーのことももう一度きいてみよう」と決心した。

見なかったことにしよう

 翌日、ヨーコがナースセンターの奥に入る時に、ちょうど担当の男性医師が席に戻っていた。ヨーコは一番近くにいた看護師に、「ハヤシですけど、砂糖の入っていないコーヒーは許可してもらえないでしょうか?」ときいてみた。
 
 看護師は医師のほうに向かって、「先生、甘くないコーヒーなら飲めます?」と質問した。
 若いその医師は「あー、僕は飲めるよ」とおどけて答えた。
 「いえ、先生じゃなくて。ハヤシさんですよ」
 「一日1杯だけね。それならいいんじゃない?見なかったことにしてあげるよ」
 「やった!きいてみるもんだね、ハヤシさん」
 看護師は快活な声で義母にそういった。

 ヨーコはダメ元だと思って用意していた甘くしていない冷たいカフェオレを、義母のプラスチックのコップに注いだ。いい香りが漂い、義母はとても喜んでいた。
 医師に訊いてくれた看護師もニコニコしていたので、ヨーコは「面会って毎日OKなんですよね?」と確かめた。
 「はい。コロナが2類の間は感染防止のためにもっときつく制限されていましたけど」
 

もうじき?

 となると。
 この病院にはパンデミックがもっとひどかった時の面会情報がアップデートされていないナースがいるのか?いや、まさか。認知症がちょっと進んでしまっている義母じゃあるまいし。一人だけ時が止まっているとか?

 その時ヨーコの後ろを別のナースが通り過ぎて行った。背中をこするように歩いていく一瞬、とても小さな声がこう言った。
「もうじきなんだから、コーヒーぐらいいわよね」

 あ、あの時のナースだ、とヨーコは思い、名札を読もうと振り返ったが、彼女はすごい速さで遠のいていき、少し先で空気に溶けるように見えなくなった。

 待てよ。待て待て待て。
 もうじきってなんだよ?義母は回復してるんだから。これから一般病棟に移って、そのあとリハビリのために転院も予定しているんだから。もうじきってお前が決めるな。お前だれだ?
 持ち込み食OKだって言った人はあの人だ、と報告しようと思って、ほんとの許可をとりつけてくれた看護師の姿を探したが、彼女ももうそばにはいなかった。

 「病院には出るっていうけど・・・・」ヨーコはつぶやいた。
 でたらめな連絡をするナースが出るってのは勘弁してほしい。

 ヨーコはグループチャットにこのことを書かなかった。
 見なかったことにしよう。
 考えなくていい。
 そう思った。
 
おわり 





おひねりをもらって暮らす夢は遠く、自己投資という名のハイリスクローリターンの”投資”に突入。なんなんだこの浮遊感。読んでいただくことが元気の素です。よろしくお願いいたします。