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ジャマイカ音楽#3

 何故、米国の音楽が初期のサウンドシステムでかけられていたのか?

 1950年代の当時はジャマイカはまだ独立国ではありませんでした。宗主国は英国であり、まだ植民地であったわけです。そして第2次世界大戦後に英国領であった西インド諸島の島々は米国との英国との間で米軍基地のために植民地の土地を貸与する協定がありました。ジャマイカにも第2次世界大戦後に米軍基地があったのです。

 当時、ジャマイカの庶民階級にも普及していったのがラジオです。ジャマイカでは米国のフロリダやニューオリンズあたりのラジオ局が聴けたという証言があります。短波ラジオ放送は遠くまで届くイメージがありますが、果たしてどれくらい聞こえたのでしょうか。

 第二次世界大戦後は冷戦の時代ですから占領地だけでなく、世界の各地に米軍基地は存在していました。米軍基地のある街では米国文化の流入により米国色の強い文化形成がなされたことはここ日本でも同じだったと思います。日本でもラジオの米軍放送であるFEN(Far East Network)が聴くことができました。基地の街ではなくともFENの聴ける地域は米国文化にふれるのが早かったと思われます。もし在ジャマイカ米軍が聞けるラジオ放送があったとすれば米国音楽にふれる機会は十分にあったと思われます。ただジャマイカにおける米軍のラジオ放送に関する記述はみたことがありません。

 そしてサウンドシステムではライバルを出し抜くための新しいレコードを手に入れることの争いとなっていきます。レコードは米国南部に出稼ぎに行っていた農業労働者がジャマイカに持ち込んでいたようです。サウンドシステムもこの出稼ぎ労働者からレコード買っていたようです。そして米軍がいるということは米兵が持ち込んだレコードもあったと思われます。出稼ぎ労働者に化けてマイアミやニューオリンズにレコードの買い付けに行っていたとも言われています。この感じは今に続いているヴァイナルDJ文化と全く同じです。音楽をディグする文化、現在のクラブカルチャーの雛形として既にかたちとなっていたのではないでしょうか。


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