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介護・人間関係論Ⅱ 介護ロボットと主奴関係

1.介護ロボットと介助者手足論

 夢のような介護ロボットについて思考実験してみましょう。

 この思考実験をとおして介護される者の隠された欲望を摘出し、介護関係(介護する・介護される)についての有益なヒントを得られるのではないでしょうか。

A.I. Artificial Intelligence

 さて、もし、2001年のアメリカのSF映画のAI[1]に見られるような完全無欠、完璧な介護ロボットが誕生したとします。
 このロボットはお腹がすいたといえば食事を作ってくれて食べさせてくれるし、オムツ交換しろといえば取り替えてくれます。
 今日は天気が良いから公園に行って友人と一緒に日光浴でもしようと思えば、ロボットに命令してベッドから車椅子に移乗させ、車に乗せてもらって公園に連れて行ってくれます。
 夜には近くの居酒屋にだって連れて行ってくれるのです。

 こんな理想的な介護ロボットを所有している人は、自立した人と言えるのではないでしょうか?
 その介護ロボットは自助具の一種、道具、装置なのです。障がい高齢者は、そのロボットに遠慮する必要もないし、気兼ねすることもないでしょう。
 このような完璧な介護ロボットが普及した未来の世界では、当然ながら、介護する人間はいなくなるのでしょう。そこには相互行為としての介護はもはや存在しません。障害者のニーズを満たすのは介護ロボットという道具なのです。
 未来の完全無欠の介護ロボットは人間社会から介護をなくしてしまうでしょう。これが、ユートピア(utopia;理想郷)なのかディストピア(dystopia;反理想郷)なのか個々人の受け止め方は違うでしょうが・・・ 

 人が完璧で理想的な介護ロボットに求めているものを想像、整理してみます。  

①   必要な時に介護を命ずることができる。
②   何の気兼ねなく命ずることができる。
③   遠慮なし、わがまま、気ままが許される。
④   自分では自立していると思える。
⑤   自分が主人である。

 この完璧で理想的な介護ロボットの思考実験をとおして、人々が暗黙裡に介護者に対して何を欲しているのかを明確にできます。 

「いつでも(時間の支配)」
「どこでも(空間の支配)」
「なんの気兼ねもなく介護を命ずることができる(人間の支配)」 

 この時間の支配、空間の支配、人の支配をとおして、「自分が主人であり自立しているという確証を得られる」ということです。端的にいえば、人は自らの人生、自分の生活の主人公、あるじでいたいという当たり前のことです。 

 以上のような思考実験をつうじて、人が例え障害を持ってしまったとしても、自分らしく生きるため、心の奥底では、自立するための道具存在としての介護者を欲していると考えられないでしょうか?

 人は「手となり足となる」ような道具存在としての介護者を欲しているのではないかということです。
 しかし、介護者が人間である限り、この欲望はエディプス・コンプレックス[2](Oedipus complex)と同様に意識されることはなく、抑圧[3]されているに違いないのです。 

 障がい者運動の歴史の中で「介助者手足論」というのがあります。

 これは、介助者は障がい者のやりたいことを実現する障がい者の手足のようになるべきだという論です。

 この「介助者手足論」について熊谷晋一郎さん(小児科医/東京大学先端科学技術研究センター・特任講師)は、介護者が被介護者の手足のような存在だとする「介護者手足論」だと、介護者は一々指示しないと動けなくなり、それはそれで大変だったと回想しています。
(参照:國分功一郎・熊谷晋一郎2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社) 

 認知症高齢者は介護ロボットに命じたくても命ずることもできませんから、完璧で理想的な介護ロボットとは、指示命令がなくても当事者の意向を忖度そんたくすることのできる介護ロボットでなければなりません。こんな忖度のできる介護ロボットはシンギュラリティ[4]突破後でも実現するのは困難だと思います。AIには欲望が無いのですから。 

2.介護関係と主奴関係

 (1)ヘーゲルの主奴論

 先に、介護ロボットについての思考実験の結果、介護される者は「手となり足となる」ような道具存在としての介護者を欲しているのではないかと推論しましたが、それは、介護する者が道具存在・召使・奴隷であってほしいということ、つまり、主奴しゅど関係を欲しているということでしょう。

 主人と奴隷についての考察したのはヘーゲル[5](Georg Wilhelm Friedrich Hegel;ドイツの哲学者)です。ヘーゲルの有名な主奴論です。 

Georg Wilhelm Friedrich Hegel

 ヘーゲルは人間的欲望の本質を自分が価値ある者という確信を得ることだとしています。
 今でいえば、自分って凄い、「Cool Japan」ならぬ「Cool自分」ということでしょう。ヘーゲルの用語で言えば「自己欲望」です。

 要するに、誰しも、自己の自立性・優越性の確証がほしいのです。
 しかし、この確証は自分だけでは叶いません。自分は凄いってことを他者に認めてもらう「他者承認」「いいね」が必要なのです。
 人間は誰しも「自分は凄い」を認めてもらいたいわけで、ここに「承認をめぐる戦い」、つまり、双方が自分のほうが上位に立ちたいという欲望を持ってしまうがゆえに主奴関係が生じるとしています。

 ヘーゲルの主奴論では奴隷は主人のために労働する経験をとおして自己を再発見、自己形成しますが、主人は消費するだけですから労働による自己形成ができません。
 そして結局、奴隷が労働をとおして自由と自立を獲得していくのに対して、労働しない主人の生活は奴隷に依存するばかりで、主人は自立を喪失してしまい、主人と奴隷の立場は入替るとされています。
 ヘーゲルの主奴論では労働をとおして主人と奴隷は逆転するとされているのです。

(2)介護関係における主奴関係

 この「主奴」関係を軸に介護現場の職員と当事者(お年寄り)の関係についての思考実験を続けてみましょう。

 介護職員は、「お年寄りを尊重せよ」「お年寄りの人権を擁護せよ」「お年寄りが喜ぶような介護をすべきだ」などと立派な介護理念・規範を教育されてきています。
 つまり、建前上は介護される者の欲望を叶えるため、介護される者が「主」で介護する者が「奴」という規範的関係性が教育されてきているのです。
 介護の人間関係においては、当事者(お年寄り)が「主」で、介護者は「奴」という関係が、「~であらねばならない」といった形で、規範的に要請されているわけです。

 そして、介護でもヘーゲルの主奴論と同じように、この主奴関係は必ず逆転します

 なぜならば、「奴」の担う介護労働は「主」の生存に関わる労働だからです。
 この介護労働なしには介護が必要な「主」は生きてはいけません。
 主奴関係を巡る争いでは、最終的には本来的に強者である介護者が勝利し、介護される者を奴隷に突き落とすことになります。まるで革命のように。

 現実の介護の非対称的な関係性は、介護の建前的・規範的関係性を革命により逆転させた関係性といえるでしょう。そして、革命をるがゆえにドラスティック(drastic:激烈)で暴力的になり易いのではないでしょうか。
 このことが、介護施設における虐待/abuse、傷害・殺人事件の根柢にあるのではないかと思っています。

 この革命を経た後の主奴関係が介護の根柢的関係性・非対称性なのです。

 この革命を経た根底的関係の非対称性はその権力性、抑圧性、暴力性を強め、剥き出しになります。
 この剥き出しになっている権力性を介護者自身に対して隠蔽するのがパターナリズム(paternalism:温情的庇護主義)で、介護者は自らの権力性に気づくことはありません。
 介護の根柢的関係性、非対称性は介護職員に「我々介護者はあなたのためを思ってやっているのだから、我々のいうことを黙って聞きなさい。」「あれこれ訴えないでくれ、我々は忙しいのだ、あなたがたのためにも、我々の仕事を邪魔しないでくれ。」などと自然に思わせるようになるのです。

 劣悪な介護施設では、障がい高齢者(お年寄り)のあるじとなりたいという欲望は徹底的に抑圧され、その欲望は無意識に追いやられますが、精神分析によれば、その抑圧された欲望は不安神経症などの何らかの症状によって意識に表出される可能性があるといいます。
 介護施設の主奴関係は当事者(入居者)の神経症の母なる大地なのかもしれません。

(参照:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「主人と奴隷の弁証法」の解説https://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E3%81%AE%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95-169806 2022.07.09)

 (3)身内の承認から地域社会からの承認へ

 介護職員が当事者(入居者)を思いやり、大切にしようと、障がい高齢者(入居者)を持ち上げれば持ち上げるほど、疲れて落としたくなる誘惑に駆られるでしょう。

 介護の根柢的関係性・非対称性の構造の内で、介護職員は自分が価値ある者という確信を得るために、もはや、障がい者からの他者承認など必要はありません。彼ら(障がい者)は単なる介護される客体なのですから。 
 職員は、職場の上司、同僚、後輩からの承認(他者承認)さえあれば自己の自立性・優越性の確証は得られるのです。
 同調圧力の強い日本の職場では、当事者(障がい者)からの承認よりも上司や同僚からの他者承認が大切なのです。
 狭い職場の職員同士、身内からの承認だけにこだわる構造を打破する必要があります。
 介護対象の障がい者に他者承認を求めることや、広く社会に他者承認を求めることが、この介護における非対称的な関係性からの脱却の道なのかも知れません。 
 

 やはり、介護は介護される者と介護する者との相互行為であり、その関係は平等・公正でなければならないし、介護職員は他者承認を上司や同僚だけではなく、当事者(お年寄り)にも求めるべきです。当事者の笑顔、穏やかな顔こそが介護職員の「自分って凄い」を証明するものではないでしょうか。

  さらに、他者承認を広く地域社会の人々にも求めるということが自然だし、大切なのです。
 地域社会から孤立していては、介護職員は自分が価値ある者であるという真の確信を得ることはできません。
 介護施設と地域社会とのつながりは、介護職員がヘーゲルのいう、「人間的欲望の本質」つまり「自己欲望」を満たすために不可欠なものなのです。
 換言すれば、介護職員の自己実現を果たすためには地域社会との濃厚なつながり、そして評価・承認は必須なのです。

 

[1] 『A.I.』(エー・アイ、A.I. Artificial Intelligence)は、2001年のアメリカのSF映画。

[2] エディプス・コンプレックス(Oedipus complex)とはフロイト(Sigmund Freud)の創設した精神分析の理論で、人間は乳幼児期から性愛衝動をもち、無意識に異性の親の愛情を得ようとし、同性の親に対しては嫉妬するが、この衝動は抑圧されていると説

[3] 抑圧( repression)とは、自我を脅かす願望や衝動を意識から締め出して意識下に押し留めることであり、またそれが意識されないままそれらを保持している状態とされる。精神分析において想定される自我の防衛機制のうち、最も基本的なものと考えられている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%91%E5%9C%A7_(%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6)2022.07.10

[4] シンギュラリティ (Singularity;技術的特異点)とは人工知能・AIが人間の能力を超える時点のこと。

[5] ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770年~1831年)ドイツの哲学者

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