世の中には「ロジハラ」など存在しない

ロジハラ。
昨今よく聞く単語であるが、これは「ロジカルハラスメント」の略であり、調べてみたら「他人に正論を過剰に突きつけ、攻撃し、相手を追い詰めること」を指すらしい。

だけど、あざらしに言わせれば、ロジハラとは概念自体が間違っている
そんなものは存在しない。

ロジハラだと論じられているものは実は「エモハラ」であると言いたくて、今回の記事を書こうと思った。

エモハラ。
こちらは調べてみても「感情的な言葉を使って相手を不快にする」程度の表現しか出てこない。感情的な言葉は多かれ少なかれ不快になるものだが、ハラスメント(嫌がらせ)なので攻撃の意思があるかないかだと思っている。
セクハラが、攻撃の意思がなくても成立するものなので、別のハラスメントも同じように考えてしまいがちなのかもしれない。でもそんなことを言っていたらそのうちすべての言動がハラスメントになってしまう。

あざらしが思うエモハラは「相手の言うことなすこと全てを感情で否定し、感情を表に出して相手に反論させようとしない」ことだ。

ネット検索をすれば、ロジハラとエモハラに関する記事はこれ以外にもいくつか出てくる。同じように考える人がけっこういるんだな、と思う。
そういう人たちの考えを整理するという意味で、この記事が役に立ったらいいなと思う。

理屈を感情的に突きつけるならエモハラでは?

ロジハラだと言われている人は、確かに高度な理論を持っている。
だけどその理論を伝えた結果、相手から反論されたときに、その反論を素直に認められない。
「自分は論理的に言ったのだから、それは正しいことだ」と、相手の意見をつっぱねるんだ。

「素直に認められなくて」「相手の意見をつっぱねる」のは感情からくる行動だろう。つまりこの人は理屈でエモハラをしている。

本当に論理的なのであれば、相手の意見と自分の意見を比べ、相手の方が納得いくと思ったら素直に意見を変えるだろう。
それに、本当に論理的な人は相手の話を聞く用意がある。相手がわからないだろうことをわかるように説明したいと心から思っていて、自分が間違っていることがあったら素直に直すほうが合理的だと思っている。

でもロジハラだと言われる人は、相手が何を言ったとしても自分が組んだ理論のほうが正しいと思っている。納得いく反論というものを求めていない。

さらに厄介な人は、理論を提示しているんだけど、相手にギリギリ答えられないレベルのヒントまでしか与えず、「相手が答えられなかった、自分が答えを提示する」というところに優越感を感じようとする。

それはエモハラでなくて何だというのか。

理屈とは共通語

ロジハラだ!ロジハラだ!と騒ぐ人は、以下のことをしただろうか。

・相手の理屈を聞いて自分なりに理解しようとする
・自分の感想で終わらず、客観的な目で話をする

もし、相手が「論理的なことを言ってきて自分の回答が詰まった」ことだけを指してロジハラだと騒ぐなら、それは騒いでいる方がエモハラだろう。

理屈は、物事をわかりやすくするための共通語だと思っている。
理屈があるから妥協ができるし、不要な怒りを回避することもできる。

ただ理屈っぽいことを聞いただけで騒ぐというのは、要約すれば
「相手が伝えたいと思ってわかりやすく工夫したことを全部無視します。理屈自体が嫌いだし自分にはできないからハラスメントだ」
となる。
そんなことを言われたら、話すことがなくなってしまう。

じゃあ、騒いでいる人に対しては、同じように個人の感情をぶつけたほうが会話になるのか?
そんなの、もっと怒り狂うだろうことは容易に想像できる。

そういう人は、自分の感想に賛同することを「嘘でもいいから言え」と言っているのだ。
自分の気持ちに嘘をついて褒めたくもない相手を褒めろだなんて、それこそハラスメントでなくて何なのだろうか。

ロジハラはなく、あるのはエモハラのみ

正論を過剰にぶつけて相手を困らせる人も、「アーアー聞こえなーい!」って騒いで人の話を聞かない人も、みんなエモハラだ、だからロジハラなるものは起こり得ない、というのがあざらしの意見だ。

あざらしは、もともと感情的な人間で、まともな対話もできなかったと自覚している。
論理的な考えができるようになったことで、騒がなくていいことを騒がないようになったし、年齢以上に落ち着いていると褒められたこともあった。
それでも感情的になる部分はまだまだあるし、もっと話しやすい人を目指したいと思う。

ロジハラという言葉は、同じように努力をした人を、なんの努力もしていない人が簡単に全否定するもので、存在してほしくない。

エモハラは、逆の意味であまり好きな言葉ではない。別にエモくないし。
もっと別の、残念に聞こえる言い方があったらいいなと思う。

福沢諭吉の「学問のすゝめ」は、書き出しで以下のように言っている。
「『天は人の上に人を作らず』であるはずなのに、賢い人、愚かな人など、人に差が生まれるのはなぜなのか。それは学ぶ人と学ばない人という違いがある。学べば賢くなるし、学ばなければ愚かになる。」
つまりこの本は学べと言っている。だから学問のすゝめなのだ。

学ぼうとする、相手を知ろうとする、対話をしようとすることをあきらめない人であり続けたいと思うし、そんな人がもっと増えてくれたらいいな、と思う。

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