精神病院の手記 一冊目

 私は罪を犯し、刑法に触れ、今ここに居る。そう考えなければ我が現状の説明が付かなかった。数日前、首を吊った。死ねなかった。其れが私の罪であるようだった。私は監獄に居る。
 笑い声を立てながら廊下を幾度も往復する者、奇声の如き聲で「此処から出して」という旨の叫びを上げる者、皆、皆、様々だった。皆、何かしらの理由をもってこの監獄に居る。ここでは、排泄ですら自由でない。ボタンで職員に声を掛け、監視を受けながら排泄するのがここでのしきたりであった。家畜のやうであった。事実其れに等しかった。私は特に重度の患者であるとされ、日に三度、食事のときしか部屋を出るを許されなかった。私はかつて、数学を勉強する学徒であった。今は、本すら許されぬ。休養の妨げになるとのことだった。私が如何に数学を好きで遣っていると説いても、主治医は「では保留と致しましょう」と云うばかりであった。本は依然、取り上げられたまま。
 私は罪を犯した。らしいと後置修飾の衣を被せるには余りにも雄弁に今の状況が罪の重さを物語っていた。しかし私の罪が何故ここまで罰せられるのか、私には身勝手さ、規定の押し付け、画一的都合を感じぬようでは居られなかった。
 汝に問う。自らのいのちは自由であるか。
 いのちとは、それすなわち生死である。私は生まれたくないながらにしてこの世に生まれ落ちた。であるからして、いのちの裏の側面、タナトスを自在に行使した。そして、おのれの生への肉体的執着に、死を乗りこなそうとした精神的決断は敗北した。この敗北の罪を今こうして何時出られるかさえ解らぬ監獄の中で償っているのか? 主治医は、看護師は、いいや、人間の言葉は、隙間なく幾層ものヴェールに包まれていて、私がその全容を観ることは困難であった。
 焦がれた光があった。其れは人というより、光であった。八光年先の恒星であった。私は其の人を、此処ではシリウスと書く。おおいぬ座で最も明るい恒星。太陽を除けば地球上から見える最も明るい恒星。冬のダイヤモンドを形成する恒星の一つ。もう届かぬから私は其の人を胸の内で星の名で呼んだ。もう届かぬから私の眼は眩い光に焼かれずに済んでいる。もう届かぬので殉じて死のうとも想う。
 私は彼の星を愛している。貴方が今直ぐ死体を見たいと仰せなら、私は喜んで舌の根食んで死にましょう。貴方が今直ぐ死にたいならば、私は泣いて貴方を安楽に殺しましょう。けれども貴方はその何れをも望んではくれぬ。貴方は、満たされている。私という、劇物を飲み干す訳も無い。満たされぬは私のほうであった。
 其れが理由で罪を犯した訳では無いが、貴方の存在はわたしの中を大いに占めて居た。貴方のひとかけら、虚像のような影でも尚貴方、それが私の中に居る。そのまま首を括ったのだから、なるほどこれは罪かもしれぬと初めて思った。しかし幽かにそう思っただけで、やはり自らの罪と罰に対し心の底から納得することは出来なかった。私は今、精神病院の閉鎖病棟に居る。
 気狂いと診断されての事だった。
 進めていた数学の論文も、シリウスと言葉を交わすことも、最早叶わぬ。私は主治医に何時ここを出られるのか聞く事が出来なかった。恐怖からである。「困ったことがあったら云って下さいね」看護師の言葉。私はわっ! と叫び、胸倉を掴んで、「此処から出せ! 此処から出せ!」と云わぬよう必死であった。懸命にもその努力は実を結び、唇の隙間から「ハイ。有難ウゴザイマス」と漏れ出た。
 皆、皆、死ねば。皆、皆、焼け死ねば。私は此処から出られるのであろうか。も一度シリウスと言葉を交わせるのであろうか。
 誓って云うが、納得のゆかぬ事柄こそ多々あれど、医師、看護師達は、皆優しい。柔和である。これだけが実際の監獄との違いであろう。だから何だと云うのだろう。
 此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出してくれ。此処から出せ。頼む。どうか、お願いします。
 
 白百合に埋もれて死するが美なら
   気違病棟に生きるは醜なりか

 夢よ夢よと毎夜床の中で念ずる。朝、重苦しい金属の束の中からひとつまみ、開錠の音。己が現実の音。気が触れる、気が触れる、おかしくなる!私の正気は、日が経つ毎に喪われてゆく。
 看護師よ。私が希む事はただの一つだけ。この監獄から出して呉れ。
 医師よ。汝の治療、無意味と知れ。私には私の思想がある。哲学がある。其れを殺すのは、私を殺すのとおんなじだ。汝の治療、無意味と知れ。
 母よ。此処から出たら殺してあげる。一ばん苦しく殺してあげる。その後私も首を括り、貴女の入院金に一銭の価値も無かったと教えてあげる。
 花さえあれば。乙女と名付けた我がすみれ、息災だろうか。彼女には、かなしい事をした。私の他に水を遣るものなど居ないのに。血色の薔薇よ、令嬢の如きに咲いているだろうか。彼女にも、さみしい事をした。あの花たちには、私しかめんどうを見て遣れるものが居ないのに。
 花、数学、シリウス。想起するは、後悔ばかり。
 私とて、刑法に触れると知っていれば、もっとしずかに遣っていた。もっとしずかに為していた。
 昼、面会に母と叔母が来る。母よ、母よ、偽善ぶるのは止したまえ。吹き出しそうだ。学校から封書が来たようであった。封書には正式なる学校の宛名で、今年の卒業を認めぬ旨が記されてあった。私は発狂よりも、諦めを感じた。諦念。我が人生そのものへの諦念。何もかもへの諦念。シリウスと共に卒業するすら叶わぬ。愛していた、私は確かにシリウスを愛していた。彼の幸福を、将来ちらと見るすら許されぬ。これが刑であろうか。これが罰であろうか。我が罪は、然程の重罪なりや。
 お前達の学校とて、一人学生を殺しているではないか。飛び降り自殺。ならば私のような学生こそ、早々に厄介払いをしたほうが双方に得であろう。私はお前達の罪を知っている。
 決まった時間に飯を喰らい、決まった時間に糞尿を垂らし、決まった時間に床に就く。ゴキブリの生活であった。ゴキブリのほうがまだ生産性がある。ゴキブリだ。俺はゴキブリだ、ゴキブリ以下だ。
 輝ける僕の星を想う。今君よ、何をしているだろうか。友人と愉しく過ごせているだろうか。おなかをすかせてはいないだろうか。幸福だろうか。
 幸福ならばそれで善い。不幸せならば、行って私が不幸の種を潰してあげる。我が胎に孕むは何でもして上げたいという暴力的な母性。
 どうして俺は彼の星と、君と、並び立つが叶わぬのだろう。
 遣る事、無し。為すべき事、大量に有り。医師、「休養、休養」。
 狂い死ぬ。

 食事三回、その時だけ部屋を出るを許される。布団、犬猫の如き簡易トイレ、ナァスコォル、コップ一杯の水、書き物用の段ボォル、便箋、ボォルペン、眼鏡以外何も無き部屋。後半四点は、夜九時になると取り上げられる。理由は解らぬ。看護師、「医師の指示」と柔和な笑みで告げるのみ。私の習作、取り上げられる。この無文化的空間の中でせめてもの読書たる行為を創造せしめるには、我が拙文のみであった。取り上げたるは我が拙き文化。
 慌てて食事、歯磨き、洗面を済ませ、棚から本を奪うように貪り読む。「――さん、食事終わったかな?」看護師の声。刑の聲。私は「ハイ」と応え、一言時間を取らせることを詫び、棚に本を戻し、看護師の後に続く。監獄に戻る。「本読めて楽しかった?」そんな訳があるか。こんな乞食のような読書が愉しいものか! 「ハイ」私はぼんやりとした声色で、ハイ、と応える。そうして鍵は掛けられる。後はもう、排泄の自由すら無い。
 私の密やかな愉しみ、横軸に素数、縦軸にランダムな整数(出来るだけ偶数)を与え、線を敷いてます目をつくり、縦軸と横軸の重なった空所にそれぞれの値を加算して記すこと。素数は前回つくったます目の続きからである故、便箋の枚数を重ねる毎にむずかしくなってゆく。筆算を許さぬが故、よい暇潰しと、数学をしていない焦燥感を殺してくれる。解っている。こんなものは子供の算数、何にもなりやしないと解ってはいても、今の私にはこれしか問題が無い。問題が無いんだ。

 「死にたい気持は零から十の内どの位ですか?」「零です」私は常にこう応えることにしていた。


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