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三島由紀夫が東大全共闘と繰り広げた「伝説の討論会」とは


死の1年半前、三島由紀夫が東大全共闘と繰り広げた「伝説の討論会」とは



三島由紀夫が東大全共闘と対峙したのは、自衛隊に決起を訴えた後に割腹自殺を遂げる1年半前のことだった。三島は1000人の学生たちを前に何を語ったのか。

学生運動の嵐が吹き荒れていた1969年5月13日、三島由紀夫は東京大学駒場キャンパス900番教室に立っていた。

戦後日本を代表する作家、そして保守言論人として活動していた“時代の寵児”を招いたのは、当時大学を占拠していた「東大全学共闘会議(東大全共闘)」。 左翼学生の総本山とも言える団体だ。

題して「三島由紀夫vs東大全共闘」。右と左、保守と革新———。政治的に真っ向から対立する両者は、1000人の聴衆を前に公開討論会で対峙した。このほどTBSが保存していた当時の記録映像が見つかり、ドキュメンタリー映画にまとめられたものが3月20日に封切られた。

思想的には相容れない三島と東大全共闘だったが、劇中で解説役の一人として登場する内田樹さん(神戸女学院大学名誉教授)は、三島が「全共闘と自分には共通点がある」と語った点に注目する。

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イデオロギーの異なる両者が「暴力」ではなく「言葉」で正面から渡り合う姿は、私たちに何を問いかけるのか。内田さんに聞いた。


「三島は全共闘と連帯できると思っていた」

内田さんは、三島が「全共闘の説得に本気でかかっていた」と見る。1969年当時は予備校生だった。

内田さんは、三島が「全共闘の説得に本気でかかっていた」と見る。1969年当時は予備校生だった。

断片的には映像を見ていましたが、今回初めて全容を見ました。50年前から色々な形で語り継がれてきたレジェンドの本体を見せつけられました。

当時、内田さんは東大合格を目指す予備校生だった。報道や直後に出た書籍を通じ、リアルタイムで討論会を知っていたという。

そんな内田さんは、三島がこの討論会で「全共闘の説得に本気でかかっていた」と見る。

この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。しかし、討論会の壇上で語る三島の表情からは、そんな気配も見えない。ずいぶん余裕があるし、楽観的に見える。

あの時点では、自衛隊の幹部の中に「三島先生が立つなら、我々も立つ」という口約束をした人がいたからです。もちろん、彼らだって、三島が本気でクーデタを起こすとは思ってもいなかったでしょう。三島の自衛隊への貢献に対する感謝の気持ちが、そういうリップサービスとして洩れてしまった。そして、三島はそれを信じてしまった。

ですから東大全共闘の前に登場した1969年5月時点では、三島は『いずれ楯の会が蹶起するときには、自衛隊も続く』という観測をもっていました。東大に彼が乗り込んだのは論争するためではなく、共にクーデタに立ち上がる革命戦士をリクルートに行った、というのが僕の仮説です。

思想的には相反するが、三島は全共闘との連帯が可能だとみていたという。

全共闘は左翼過激派の運動であって、彼らは立憲主義者ではありません。日本国憲法の下での立憲的な民主主義体制を守る気なんかまったくなかった。だから、その点は三島由紀夫とは一致していたわけです。

敗戦後の日本を「対米従属」だと断じ、戦後の民主主義を欺瞞だとして実力行使をもって抵抗した全共闘。そこに三島は、ある種のシンパシーを感じていたのかもしれない。

三島は討論会で、全共闘にリップサービスとも思えるようなエールを送っている。

三島:私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。

諸君がやったことの全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義から来た、知識人のうぬぼれというものの鼻をたたき割ったという功績は絶対に認めます。

避けては通れなかった「天皇」

戦後、昭和天皇は詔書を発し「現人神」であることを否定したが…。

ただ、三島が全共闘と連帯する上で、避けては通れない深い溝があった。「天皇」をめぐる考え方だ。

内田さんはこう指摘する。

三島としては、日本で国民を動員できるような規模の政治運動をやろうとする場合、日本人を一つにまとめ、心に火をつけるような“政治的幻想”が必要だと感じていたと思います。三島はそれは「天皇」以外にはないと思っていた。

「天皇」という一言が日本人をして小市民的限界を超えた政治的狂気に駆り立てることのできるイデオロギー的な発火点になり得るということを、三島は戦前の経験を通して知っていた。それは日本国憲法下でも変わらないと三島は考えていました。

学生たちも、本気でこの社会を根本から覆す気なら、「全国民を動員できるような政治的幻想」は何かという問いに突き当たるはずだ。三島由紀夫はそう考えたんでしょうね。

それなら、学生たちと手を結ぶことができる、と。全共闘と結び、自衛隊も立つなら、日本社会に激甚な衝撃を与えることができる。それがこの時点での三島由紀夫の過度に楽観的な見通しだったと思います。

三島は黒いポロシャツ姿で壇上に現れた。時おりタバコを燻らせながら、東大全共闘の論客と討論した。

三島は黒いポロシャツ姿で壇上に現れた。時おりタバコを燻らせながら、東大全共闘の論客と討論した。

実際、三島は討論会で「天皇」についてどのような言葉を紡いだのか。

学生の一人から「擁立された天皇、政治的に利用される天皇の存在とは醜いものではないか」と問われた三島の答えを見てみよう。

三島:しかし、そういう革命的なことをできる天皇だってあり得るんですよ、今の天皇はそうではないけれども。天皇というものはそういうものを中にもっているものだということを、僕は度々書いているんだなあ。その点はあくまでも見解の相違だ。

こんな事を言うと、あげ足をとられるから言いたくないのだけれども、ひとつは個人的な感想を聞いてください。というのはだね、ぼくらは戦争中に生まれた人間でね、こういうところに陛下が坐っておられて、3時間全然微動だにしない姿を見ている。

とにかく3時間、木像のごとく全然微動もしない、卒業式で。そういう天皇から私は時計をもらった。そういう個人的な恩顧があるんだな。

さらに三島は続ける。

三島:こんなこと言いたくないよ、おれは(笑)。言いたくないけれどね、人間の個人的な歴史の中でそんなことがあるんだ。そしてそれが、どうしても俺の中で否定できないのだ。それはとてもご立派だった、そのときの天皇は。

それが今は敗戦で呼び出されてからなかなかそういうところに戻られないけどもね。僕の中でそういう原イメージがあることはある。

この討論会での三島について、評論家の保阪正康氏は「本質的に知性の人」であり、「感性に対しては異常なまでに嫌悪感を示している」と著書『憂国の論理』で記している。

ところが、こと「天皇」に関して三島が開陳した言葉は、決して「知性」的ではなく、極めて感性的な個人体験だった。

そこには三島独特の「天皇論」があったと内田さんはみている。

日本国憲法では「天皇」は国民統合の象徴ですが、三島にとっては同時に日本文化の精髄の象徴でもありました。

自分の半身は2000年に及ぶ列島の歴史によって養われている。そして、天皇制はその歴史の最深部から生命を汲み出して生きている。だから、日本人的エートスの最も深く豊かなものと天皇制は不可分である、と。三島はそういうふうに考えていたのだと思います。

日本語、日本文化というのは、いわば「死者たちが構築したアーカイブ」です。日本人はその死者たちとつながることで最もオリジナルなものを創造しうる。日本語で表現して、世界作家たらんとする以上、どうしても伝統的なものとのつながりは切るわけにはいかない。

日本文化に、死者たちに多くを負っているという自覚があったからこそ、三島は「日本人」「天皇」というものにこだわったのだと思います。

当時の三島は、「天皇」を日本の伝統と文化の中心に据えたナショナリズムを唱え、それは『文化防衛論』(1968)などの作品にも反映された。「作家・三島由紀夫」にとって「天皇」は、自身の根幹の一部となっていた。

三島が見抜いた、学生の「甘え」とは

三島は、ギラついた目を聴衆1000人に向けながら「天皇」の原体験について語った。

三島は、ギラついた目を聴衆1000人に向けながら「天皇」の原体験について語った。

三島が感性的な「天皇の原体験」をオープンにしたことは衝撃的を与えた。もしかしたら、学生側はそこを突破口に、三島を論破できたかもしれない。

「あなたの個人的な天皇への原体験を普遍化しようとすることは間違っている」と。

ところが実際、三島に対する学生たちの答えは以下のようなものだった。

安田講堂へ閉じこもる。そこでみんなが天皇と言おうが、言うまいが関係がない。

三島氏が天皇と言おうが言うまいが、別に僕たちと共にゲバ棒を持って、現実に僕たちの側に存在する関係性、すなわち国家を廃絶すべきではないか。

これに三島は、「『天皇』と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないから、いつまでたっても殺す殺すといってるだけのこと」と応じた。

前述の保阪氏は、この時に三島が「学生側の甘え」を見抜いたと論じている。

学生たちはゲバ棒を持ち、権力に向かって暴力行動を挑む。だがそれはなにゆえなのか。それを充分論理化できぬことに彼らはいらだっている。
そのいらだちを埋めるのは、量の拡大と、彼らの対極に侘立するものを自らの陣営に引き入れて、その論理を政治力学の中に吸収してしまうことである。だが、いずれにしてもそれは弱き者の甘えでしかない。三島は、討論をつうじてそのことを知ったのだ。(保阪正康『憂国の論理』より)

討論会の最後、三島は次のように言い残して、駒場900番教室を去った。

三島:私は諸君の熱情は信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい。

東大駒場キャンパス900番教室に集まった学生たちの目に、保守論客の三島の姿はどう映ったのだろうか。

「無力感」と「エゴイズム」に陥らないために…

伝説となった討論会の後、三島と左翼学生たちが辿ったのは、いずれも破滅への道だった。

およそ1年半後、三島は自衛隊に決起を呼びかけ、自決する。学生運動も暴力的な“内ゲバ”から「山岳ベース事件」「あさま山荘事件」へと至り、瓦解。こうして「政治の季節」は終わりを告げた。

内田さんは「現代の日本の若者たちは、自分が何を言っても、何をしても、世の中はまったく変わらないという無力感に蝕まれている」と指摘する。

内田さんは「現代の日本の若者たちは、自分が何を言っても、何をしても、世の中はまったく変わらないという無力感に蝕まれている」と指摘する。

あれから半世紀、内田さんは若者たちは「非政治的になった」と説く。

香港や台湾や韓国と比較すれば、制度的には日本の学生たちの方がはるかに政治的自由を享受できています。にもかかわらず、学生たちは身動きできなくなっている。それは彼らが「非政治的」になっているからだと思います。

「政治的」にふるまうというのは、自分ひとりの言葉や行動が世の中を変えるかもしれないという、一種の「妄想」に取り憑かれることです。個人の生き方と国のあり方の間に相関があるという確信がなければ、人は政治的にふるまうことはできません。

現代の日本の若者たちは、自分が何を言っても、何をしても、世の中はまったく変わらないという無力感に蝕まれている。これは事実ではありません。主観的な「思い込み」です。

だから、地方選では投票率が20%を切るところもある。8割もの人が、“私の一票では何も変わらない”と思っている。でも、それは客観的な現実ではなくて、「そういう気がする」というだけのことです。

皆が投票しなければ、組織票を持っている人たちが永遠に勝ち続けることになる。自分の声は政治に反映されない。その積み重ねは、やがて自分が世界に影響を与えられないという「無力感」につながると、内田さんは警鐘を鳴らす。

無力感は必ずエゴイズムと対になります。自分が何をしても世の中には何の影響もないと思ったら、人が利己的にふるまうことを止めるロジックはなくなる。公益にも、公共の福祉にも配慮する必要はない。ですから、人々が非政治的になればなるほど、その社会は非倫理的になる。

政治的な人は、自分が一つでもささやかな“良きこと”を積んでいけば、いずれ塵も積もって山となるというふうに考える。みんなが石を積んでいったら、世の中は変わるんじゃないかなと考える。そういう政治的な気分をもう一度回復してほしいと思います。

自分の一挙手一投足が、国の趨勢につながっている。半世紀前の三島由紀夫と全共闘1000人の討論会は、そんな「熱情」を観客に想起させるかもしれない。

ギラギラとした三島の目は、いまの人々に何を問いかけるだろうか。



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