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長崎県美術館 クリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展 アーティストトーク記録

このnoteは2019年10月18日~2020年1月5日に長崎県美術館で開催されたクリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展初日(10月18日)、作家本人によるアーティストトークの記録です。

この展覧会は大阪→東京→長崎と巡回しており、大阪・東京それぞれのアーティストトークも記録していますので気になる方はこちら↓からどうぞ

大阪会場
https://note.mu/syosaida/n/n5b1a673bd419

東京会場
https://note.mu/syosaida/n/n635718060fe7


フランス語で話すクリスチャン・ボルタンスキー氏の言葉を通訳の方が訳し、それを記録して読みやすいよう編集した文章なのでアーティストの言葉を100%記せれたものではなく、聞き取りミスや解釈違いの可能性がある内容であることをはじめにご了承ください。当日会場で聴かれていて間違い箇所に気付いた方はコメントなどで報告頂けると助かります。

ではここからアーティストトークの内容となります。


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皆様おはようございます。たくさんの方に朝からご来場頂き感激しています。まず最初に今回の展覧会のタイトルの話から始めたいと思います。

「Lifetime」すなわち私の人生の時間。展示されている作品は私が50年間に渡り制作してきた作品です。従って私の人生の時間なのですがそれと同時に作品を観る全ての方にとっての「Lifetime」でもあるのです。

アートの美しさは自分について語ることだけでなく、自分が他者になっていくところです。訪れる人ひとりひとりが私の作品を見て、自分自身がそこにいる、自分を認める、自分の姿を見ることを私は望んでいます。私の作品の中にご自身の思い出を持ち込んで自分の姿がそこにあるかのように感じていただきたいのです。私の人生ですが各人の人生であり、その各人はそれぞれの魅力を持っています。

今回の展覧会は皆さんが普段観ている展覧会とは異なっています。もちろん沢山の作品がありそれぞれが異なっているのですが、最終的に展覧会全体を一つの作品のように見ていただきたいと思っています。ですからこの作品が好きである、こちらの方が好きであるということは問題にはならないのです。展覧会の内側に入り込み、展覧会全体を一つの作品として感じていただきたいと思っています。

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私にとって展覧会とはお寺や教会の中へ入っていくようなものです。そこで何が起きているのかはわかりません。数多くの要素があり、なぜそこにあるのかもわかりませんが、何かが起きているという事を感じることができます。そしてそこは静かな場所ですからその中でしばし座って自分について考え、瞑想を行うことができます。

したがってこの展覧会はそのような瞑想の場所です。各作品が異なっていてそれぞれ違う問題提起をしています。けれども静かなこの場所で自分の人生について、死について、そして思い出について考えていただきたいと思っています。

私の作品は単純な美しさのために作っているわけではありません。私が自分自身に対して提起している問題提起について作品で示しています。もちろんそこに答えはありません。私自身が答えを持っていませんし、誰もその問題に答えることができないからです。

けれども作品を観る全ての人が自分自身が観るべきものを見なければならないと思っています。私の方で作品に対して意味を押し付けることはしません。なぜなら作品を完成させるのは観客だと思っているからです。自分自身の過去や欲求を作品に投影することで完成されるのです。

1969年に初めて作品を作って以来、私は忘却・消滅と戦おうと決めていました。各人間存在が重要かつユニークで貴重な存在であるはずなのに人間は極めて脆弱で脆い生き物です。全ての人間が死んでしまうからです。そして今生きている私達の記憶の中でも、例えば祖父のことを思い出せても曽祖父のことは思い出せません。

そこでこれほど重要であった人達のことを何故忘れてしまうのかを作品で問いかけました。私は「小さな記憶」と呼ぶものがとても重要だと思っています。

「大きな記憶」とは本などに書かれる歴史的な記憶で「小さな記憶」とは人間個人の消えてしまう記憶のことです。例えばそれは「ある人が作っていたお菓子の話」「ある人が知っていたユニークな話」「私だけが知っている本当に美しい場所」そうした記憶が人間を構成しているのにそれらは消えてしまいます。

私の作品の中には沢山の写真や古着が出てきます。私にとって写真は無名の存在、古着は人の精神そのものを表しています。しかし、写真や古着はその人の存在よりもむしろその人の不在を伝えてくるのです。それらを扱うことで不在の指摘はできても存在そのものは消えてしまっています。そうしたわけで私の作品は失敗の連続です。死や消滅と戦うことはできないからです。

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私は約10年前に、自分の人生をタスマニアに住んでいるコレクターに売りました。

どういうことか説明すると、私のアトリエに何台も監視カメラを取り付け、その様子がライブでタスマニアに送られ、その全てがDVDに録画されています。今ではそれが何千枚にもなって保存されています。しかしこのコレクターは私が映像の中で何を考えているのかを知ることはできず、私が年を取っていく姿を見ることができるだけなのです。

彼自身は私の記憶を買ったと言っています。私がいつ誰に会っていたのか、その全てが録画されているからです。ここでも写真や古着と同じです。私の人生の時間を何千時間も持っていますが、私自身を所有はしていないのです。そう言ったわけでこの試みも一部が失敗であったことが示されています。

私の作品は小さな比喩のようになっています。それは禅問答のようなものです。禅問答は哲学的な意味を持っています。表面的に見ると滑稽であったりごく当たり前のことだったりするのですが、よく研究すると何か深い意味がある。私の作品は視覚的要素や音を使っていますので厳密には違うわけですが、各作品の比喩がそういった思考を促す手助けをしてくれるのです。

「Lifetime」私の時間が今この時(高齢)になり、私の作品の多くは展覧会の後に破壊されるようなものになりました。今回の展覧会で展示されているものの半分は展覧会が終われば壊されるものです。そして別の場所で再び作り直されるのです。したがって私の作品は音楽の楽譜に近いものになりました。演奏されるたびにまた違ったものになります。

今回の展覧会でご覧になった方は黒い服の山を見たと思います。あの作品はベルギーで初めて作った作品ですが、今回また作り直されたわけですから同じ作品ですが大きさや形が少し違うのです。楽譜でも演奏する人によって解釈が異なり、少し違う楽曲になるわけです。すなわち展示の度、その場所によって解釈し直すことができるのです。

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私は伝達の方法に興味があります。2つの異なる伝達の方法があります。西洋では聖人の骨のカケラや聖遺物などの物による伝達。それに対して日本は知識による伝達。日本には人間国宝と呼ばれる人がいて刀を作り直すことができます。物による伝達と知識による伝達。私は日本の知識による伝達に興味を持つようになりました。

近年の作品では伝説/神話を創るよう努めています。豊島にある「心臓音のカーカイブ」は巡礼の場として考えて欲しいと思っています。豊島はとても美しい場所なのですが、そういった視覚的な美しさよりも、

「日本のとある島に世界中から集まった心臓音が保存された場所がある」

という事を知っていることが重要なのです。

豊島「心臓音のアーカイブ」
http://benesse-artsite.jp/art/boltanski.html

先ほど私の人生がタスマニアに送られ続けていることをお話ししました。そこは洞窟のようなところで何千時間という私の様子が記録されアトリエの様子がライブで上映されていますがそこにいく必要はないのです。わざわざそこに行ってアトリエの様子を見に行き、私が鼻をかいている姿を見ても面白くはないでしょう。重要なのは伝説です。

「一人の人間がある別の人間の人生を買い取った」

その意味を考えることなのです。

またそのコレクターは何千時間にもわたる私の人生を見ていると自分自身の人生を生きることはできません。それはファウストの神話にもつながる伝説です。見ることの重要性、見られることの重要性と関わってきます。

また「神は時間の主人」としてオーストリア・ザルツブルグの教会の地下で現在時刻を言い続けている、という作品があります。

-"Vanitas", Christian Boltanski-
https://www.salzburg.info/en/salzburg/creative-salzburg/art-in-public-room/walk-of-modern-art/vanitas

ザルツブルグはとても美しい街ですからそこに行くこと自体は良いのですが、実際にその作品を観にいく必要はないのです。

「ザルツブルグの教会の地下ではいつも現在時刻が告げられている」

という事実を知っていることが重要なのです。

「アニミタス」という作品は沢山の風鈴が並んでいます。それはチリ北部のアタカマ砂漠のとある場所に置かれています。この場所は世界でもっとも乾燥した場所で、また最も空に近い場所だと言われており、星がとてもよく見える場所です。

あの風鈴は人間の精神/スピリットを表しています。風が吹く度に精神/スピリットが語りかけてくるのです。

アタカマ砂漠では砂嵐が頻繁に起こるので、おそらくもうあの風鈴は全て消えてしまっているでしょう。他にもカナダの極北の地にも設置しましたが、それも既に雪に埋もれていることでしょう。けれども、

「アタカマ砂漠には精霊/スピリットの声が響き渡る場所があった」

という伝説は残るのです。また「アニミタス」は映像が残っています。10時間の長回しのフィルムによって昼から夜にかけて精霊/スピリットが語りかけるのを聞くことができます。

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同様に「ミステリオス」という大きなビデオの作品があります。あの撮影が行われたのはパタゴニアの人がほとんど住んでいない、行くのがとても難しい場所です。インディオの伝説の中で「鯨は時の始まりを知っている動物である」と聞いたことがあります。したがって鯨はあらゆる問題に答えることができるのです。

私は人生の答えを探してきましたから鯨に話しかけてその答えを教えてもらおうと思いました。そこで音響技師と協力して巨大なトランペットを作り、風がそれを抜ける時の音が鯨の言葉に近いものになることに成功しました。それを設置して私は鯨からの返信を待ちましたが答えが返ってくることはありませんでした。

しかし、全ての設置物がなくなり、それを作ったアーティストの名前も消えた時、あの地には、

「ある日頭のおかしい人がやってきて鯨に話しかけようとしていた」

という神話が残るのではないでしょうか。したがって人間が作った作品よりも神話や伝説の方が重要です。

このように私は伝説/神話を作り出そうとしています。もちろんそれらの作品は現実を基盤としており、問題提起をしていますが人々の記憶の中に残るのは私の作品そのものではなく伝説や神話の方ではないでしょうか。

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私が初めて日本で展覧会を行った時、日本の方々は「あなたのアートは極めて日本的で日本文化をよく勉強している」と言ってくれました。

もちろんそれは間違っていて私は日本文化のことをほとんど知りませんでした。また「あなたの外見は日本人のようだ。おじいさんは日本人ですか?」と聞いてくれました。

私はアーティストは完璧で普遍的であるべきだと思っています。ですからアフリカにいても「あなたのアートはとてもアフリカ的であなたのおじいさんはアフリカ人ではないか?」と聞いてもらいたいのです。

したがって私は地球上の全ての人に話しかけようとしているのです。そして全ての人の心を打つものでもありたいと考えています。人類は共通の地盤を持っていて同じ問題を提起している、だから私は人類全体に語りかけることができるのです。

歴史の始まり以来、アーティストが提起した問題の数は極めて少ないです。それはアーティストに限らず全ての人が提起する問題と同じです。例えば、

「聖なるものに対する欲求」
「セックスの問題」
「自然の美を見たときの驚き」
「偶然の問題」

私達は同じテーマを随分と追及してきましたが、私も全ての人もそれらへの答えは持っていません。

私達が今この姿でここにいるのは、何年も前のある瞬間に両親がセックスをしたからです。次の瞬間では私達は異なった姿になっていたでしょう。それはこのような姿や精神で生まれてくることが運命としてどこかに書いてあるのか、それとも全ては偶然で無秩序なのか。これはとても重要な問題だと思っています。私は特定の信仰を持っていないので、後者ではないかと思っています。

私は祖先達が私の中に存在していると信じています。例えば私の目は叔父、口は叔母、耳は曽祖父の形をしています。このように私は先立つ人々のパズルのピースによって顔が出来上がっているのです。

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それと同時に祖先から教わった知識も持っています。私達はそれぞれ祖先や生まれ育った場所や文化も違いますが、そこで生きた人々から受け継いだ知識を持っているのです。

沢山の人が私達の中にいます。多くの人間が私達の中にいるのです。

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観客からボルタンスキー氏への質問。


Q1「人は死んだ後どうなると思いますか?もし生まれ変われるとしたらどうなりたいですか?」

先ほど申し上げたように私は信仰を持っていないので死んだ後どうなるのかということへの答えはありません。おそらく何にもならないのではないでしょうか。

また生まれ変われるとしたら、私の後に続く人達の中に私達の一部が残るのではないでしょうか?50年後に産まれてくる子供の口になったり耳になるのではないでしょうか。

私は全ての人間が閉ざされた知識の扉の前にいて、その扉を開く鍵を探していると思います。しかし鍵を見つける人はいないので知識の扉が開かれることは絶対にない、しかし人間はその扉を開くための鍵を探し続ける存在なのです。


Q2「日本の好きな場所(地域)はどこでしょうか?」

伊勢神宮にはとても感銘を受け、多くのことを学びました。自然との関係、そして20年毎に作り直されることです。

西洋美術は日本文化から多くの影響を受けています。
たとえば「Revue blanche-ルヴュ・ブランシュ-」など19世紀末にあった雑誌が日本文化・美術を伝えましたし、またバウハウスも日本文化から影響を受けています。
(2019年10月21日、不明だった雑誌名を追記。情報提供ありがとうございます)

参考文献「JAPONISM 20th Anniversary-ジャポニスムの20年-」
http://japonism20th.webflow.io/special/what-is-japonism


私は先日シャルロット・ペリアンの展覧会を見たのですが、彼女は日本に住んでおり日本から影響を受けています。

参考文献「美術手帖-20世紀デザインを牽引したシャルロット・ペリアンの活動から見えるもの。パリのフォンダシオン ルイ・ヴィトンで回顧展が開催へ」
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/20218


またアメリカのジャクソン・ポロックなどもそうです。私のように禅を経由して日本に影響を受ける人もいます。20世紀美術が日本文化から影響を受けていると言えます。


Q3「長崎会場で作り直された作品、選択された作品は長崎という場所が持っている記憶と関係を持っているのでしょうか?」

この展覧会は直接長崎とは関係していません。なぜならこの展覧会は既に他の都市で展示しているからです。ただし私にとって長崎は特別な意味を持っています。それは長崎は偶然の問題を多く提起しているからです。この人は何故長崎で生まれたのか、何故生き延びたのか、また死んでしまったのか。これは偶然なのか運命なのか根本的な問題を提起しています。そして長崎は人間がどれだけ恐ろしいことができるのかを証明する場所でもあります。

全ての人が人間を殺すことができる。人間は残忍になることができるのです。朝に子供にキスをしておいて午後には子供を殺すことがあるのです。全ての人が全てのことができるのです。方向が間違ってしまうとものすごく残酷なことができるのです。政治家が悪い方向に人を導いてくこともあります。日本の方々も中国で恐るべきことを行なったことがあります。

私は自分の隣人がとても良い人であっても、ある日突然私を殺すかもしれないということを知っています。同様に私自身も悪になれる。このように私にとって長崎は偶然と残酷さの象徴です。

昨日私は長崎の街を歩きました。若い女性や子供や高齢者を見ました。この人達が死ぬのだと考えました。亡くなったのは同じように生きていた人たちだったのだと思いました。

ちょっと重たい話になってしまったので少し楽観的な話を。マルセル・プルーストの本から私の好きな物語を話したいと思います。

ある一人の男性が妻を亡くしたばかりでとても悲しんでいました。彼の友人達は心配して彼を公園に連れて行きます。そうすると公園には心地良い陽が射していて男性はそれをとても美しいと感じます。同様にその公園に咲く花を見てまた美しいと感じます。それからしばらくしてその男は「はっ忘れていた!」というのです。

このように忘却があるから私達は生きていくことができるのです。私達は人生が悲劇的であることを知っています。けれどもそのことを忘れて人生を味わうことができるのです。

Q4「今回の長崎会場では他の会場にあったいくつかの作品がなくなっていました。それは何故でしょうか?また「咳をする男」「舐める男」など初期作品が日本では話題になっていましたが、初期の作品と最新作では大きな違いがあります。そういった初期の作品が話題になるという状況についてどう思われますか?」

この長崎会場は大阪や東京の会場に比べて狭いので、最近の作品に集中したいと考え、いくつかの作品を排除しました。

「咳をする男」「舐める男」は1969年の私が極めて若い頃の作品です。私もあのフィルムが大好きですが、今回の展覧会の中であの作品は入り込めれないと思いました。あの作品はティーンエイジャーの作品であって大人(成人)が撮った作品ではないのです。

他の会場で「咳をする男」が上映できたのを嬉しく思っています。なぜならドイツのフィルムフィスティバルに来ていた日本人の方があのフィルムを気に入ってくれて、大阪で上映をしてくれました。それがきっかけで私は日本へ初めて訪れることができたのです。

あの作品は悪夢であり、ティーンエイジャーの叫びであると考えてください。他の作品が小さな比喩になっているという話をしました。あの2本のフィルムはそういったものではなく苦しんでいる人の叫びです。あの映画を作っていた時私はかなり病気でした。ですからあの作品は病気の若者のフィルム作品だと考えてください。

このように若者の叫びから、「アニミタス」の静謐さになります。もはやそこには叫びはない、その後の静けさが存在しているのです。

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以上、長崎県美術館、クリスチャン・ボルタンスキー「Lifetime」展のアーティストトーク記録でした。

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