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新聞とコーヒーと。

私の小さな頃、新聞は当たり前に家にありました。父が朝食と共に読むのに、朝刊を玄関に取りにいくのが、私たち子どもの仕事でした。狭い食卓に、お味噌汁とご飯とお新香が並び、その上に新聞紙を広げながら読む父の姿が、当たり前にありました。緑茶を啜る音と、紙がペラっとゆっくりめくられる音。

日曜日には、サンデー版が折り込まれ、クロスワードや迷路やまちがいさがしが載っていて、末っ子の私はまちがいさがしの担当で。あと1つが見つからない、けれど解答をみるのは癪で。たいていは、朝ごはんを食べながら、四コマ漫画とテレビ欄を覗き込むくらいで。父は何をそんなにも毎日 熱心に読んでいるのかしら、と思ったものでした。ときに、「ほぅ」とか「ん〜。。。」とか言う父を。

そうして育ち、結婚してからでも、子どもたちが産まれおおきくなった今でも、新聞をとっています。かつての父のように、夫が朝食と共に読み、そのあとに、私がコーヒーを飲みながら読んでいる、というのが朝の風景。

ところが、

そんな我が家にもある時期、新聞をとらない時期がありました。

数字にはめっぽう弱い 根っからの文系人間の私が、家計簿をつけていた新婚のころ(新婚というのはいろいろを一通り頑張らねばならない)、新居を建てる前に主婦雑誌で「家計の節約術」に感化されていたころ。月々3000円の節約になる、と夫を説得し、新聞をとめたのでした。

ところが。

新聞をとらない生活が、こうも私たちの生活を変えてしまうのか、というほどいろいろなことに支障がでたのです。それもあまり時を経ずして。

まずは、朝食の時間がとにかくあっという間に終わってしまうこと。もともと時間のない朝は、ササッと食べられるものですましていますので、あっという間に食べ終わってしまいます。食後のコーヒーに至っては、手持ち無沙汰で、地域のフリーペーパーをペラペラしてみるのですが、そう毎日毎日同じものを見てもつまらない。読書はどうか?いや、そこまでどっぷり入ってしまうのは遅刻しかねない。スマホゲームはどうか?それこそキリがなく、コーヒーを飲むことすら忘れてしまう。そうして、朝食とコーヒーと、ゆっくりすることがなくなっていきました。

そうしていると、夫の体に異変が。朝のお通じがなくなってしまったのです。もともと、お腹の弱い夫は、1日のはじまりに来るものが来ないことで、身体のリズムが大きくかわってしまい、日中に腹痛におそわれるようになってしまいました。腸の調子がおかしくなると、しばらくおさまっていた鼻炎もでるようになりました。わかりやすい不調。

私はといえば、テレビ番組がわからなくなり曜日の感覚がうすれていきました。近所のスーパーのチラシもないので、買い物も下手くそになりました。生ゴミ処理に、古新聞紙をじゃんじゃん使って簡単だったのに、わざわざ生ゴミ処理ネットなんかを用意しなければならなくなりました。

なんかさ。。

と、夫と私は、同じようなタイミングで同じようなことを言い出したのでした。

なんかさ、新聞ないと不便だね。

そう、不便なんです、新聞がないと、こんなにも。我が家にとって新聞はもう、単なる情報源だけではなく、新聞を読みながらの朝食のゆとりであったり、古新聞みたいに何にでも使える紙の存在であったり、我が家の1日のはじまりを調える なくてはならない存在であることに気がついたのでした。

それからすぐに、新聞屋さんへ電話し、新聞をやめるのをやめる旨を伝えました。さっそく翌朝には、我が家の新聞のある生活が戻ってきたのです。朝食とともにゆっくりめくられる新しい新聞紙の音、かつての父のように、「ほぉ」とか「んー。。。」とかいう夫と、四コマ漫画をのぞき込む三女。みんなが出かけた後に、新聞とコーヒーでゆっくりする朝の風景。今では、その時間を覚えた飼い猫が、決まって新聞紙の上に寝るのがちょっと(いや、だいぶ)じゃまだけれど。。。

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