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第9回 第一次世界大戦勃発

昨日5月9日は、ロシアの「対独戦勝日」でした。ロシアにとっては、第二次世界大戦でナチスを打ち砕いた記念すべき日です。ロシアの戦死者は2千万人以上とずば抜けて多く(しかし約1000万人はスターリンによって自国民が殺されたとも言われますが)、その後、日本兵も56万人が拉致され、破壊された設備の修復に無料奉仕させられ、極寒と飢えで約6万人が亡くなりました。戦後78年たっていますが忘れる事のできない事実です。
昨今のウクライナ侵攻もあり、パレードは縮小されたという事ですが、止む気配がないこの侵攻で多数の方が今も亡くなられていると思うと忸怩(じくじ)たる思いです。

さて、1914年7月28日に第一次世界大戦は起こりました。当時は「世界大戦」と呼ばれていたと言われます。それはもうこんな馬鹿げた戦争は二度と起こらないと人々は思っていたからです。しかし大戦の約20年後もっと悲惨な戦争が起こりました。第一世界大戦の戦死者は1500~2000万人(病没なども数えるかどうかで数字は違ってきます)。第二次世界大戦は6000~7000万人。つまり40年ほどで約1億人の尊い命が犠牲になりました。

どうして第一次大戦は起こってしまったのでしょうか?
中欧で成長著しいドイツ帝国では、知恵者ビスマルクを放逐した若き皇帝ヴイルヘルム2世が「世界政策」へ乗り出していました。つまり英仏で独占されていた植民地の「再分割」を試みている訳です。
しかし若さゆえかヴィルヘルム2世は大きなミスをしました。ロシアと再保障条約を更新しなかったのです。これは同じゲルマン系のオーストリア帝国との連携を強めるためでした。ロシアとオーストリアは険悪な仲だったのです。しかし困ったロシアは、当時ビスマルクによってずっと疎外され続けていたフランスと同盟を結びました。更に今まで不仲だったイギリスとフランスは共通の敵・ドイツに対して英仏協商を組み、更にロシアも含めた三国協商でドイツを包囲する作戦に出たのです。

オーストリアは自国の南のバルカン半島にも勢力を伸ばそうとしていました。当時バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とも呼ばれ、ゲルマン、スラブ、イスラム系が入り乱れたややこしい所でした。
1914年、オーストリアの皇太子夫妻が、強引に併合したボスニア・ヘルツェゴビナの州都サラエヴォを訪問していましたが、反感を持つセルビア青年(スラブ系)に射殺されてしまいます。すぐに犯人は殺され、他にセルビア人を多数死刑にしましたが、オーストリアは結局セルビアに宣戦します。
セルビアは同じスラブ系のロシアに助けを求めます。

この時、ヴィルヘルム2世は、英仏露を敵に回したらさすがに勝ち目は無いと思ったのか、従兄弟になるロシア皇帝ニコライ2世に動員を止めるよう要請しますが、すでに兵は動いてしまっているという事、ドイツもオーストリアを助けるために軍隊が動いているという事で結局なし崩し的に戦争が始まってしまします。(後日、亡命したヴィルヘルム2世は、私は戦争を止めようとしたと弁明しています)
ヴイルヘルム2世は英仏の中立を画しますが、そんな甘いものではなく英仏露を敵に回ります。そしてロシアに反感を持つオスマン・トルコは味方しましたが、ドイツと同盟を結んでいたイタリアはオーストリアと不仲で、英仏露の連合軍に味方してしまいます。
戦線はドイツにどうみても不利でした。しかし両軍とも兵士は楽観的で「クリスマスには勝つさ」とどちらもが思っていました。そしてドイツは必殺技の凶器である禁断の兵器を使用します。(続く)

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