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好きの増加は嫌いの増加と比例する?

こんにちは。清家です。

「あなたが好きなものはなんですか」と聞かれたら、みなさんはなんと答えますか?

私はたくさんあります。

映画、小説、旅行、英語、スペイン語、餃子、ハンバーガー、カレー、ピザ、こんにゃく、チョコレート、プルドポーク、家のベッド。

もっともっとあります。

では「あなたが好きな人は誰ですか」と聞かれたら、みなさんはなんと答えますか?

私には難しい。芸能人ならすっと出てきます。

大好きな友達もたくさんいる。でも「好きな人は誰ですか」と聞かれて、友達の名前をひたすら羅列していくのって、何故か友達を比較して選別しているような気がするのです。

だからとっさに探してしまいます、「好きな人」=「恋愛対象として見ている相手」を。

今日は、私が好きな人ができたときに嫌いなものが増えてしまった話。

(「好き」という単語が死ぬほど出てくるので、ゲシュタルト崩壊を起こしてしまうかもしれません)


▽良い「好き」と悪い「好き」

「好き」ってプラスな感情だと思うんです。自分に危害が及ばない限り人に好かれるということはハッピーな気持ちをもたらすし、過度に相手に期待を持たない限り人を好くという行為は自分にとってプラスな影響を及ぼすことが多い。

そんなプラスでハッピーな感情である「好き」ですが、私の場合それがマイナスに働いてしまうことも多かった。


私は「好き」を人と共有することがとても好き。だから自分が好きなものは積極的に発信していくし、遊びに行く相手に「清家が好きなところに行こう」と言われるとすごく嬉しい気持ちになります。

そして相手もそれを好きになってくれるともっと嬉しい。

好きな人と好きな友達を引きあわせるのが好き。好きな人と好きな映画を観るのが、好きな音楽を聴くのが、好きな食べ物を食べるのが好き。

けれど、自分はこんなに「好き」の布教活動をしているにも関わらず、相手の好意が異性に対してだとついムキになってしまう。

自分の好きな人の好きな人が異性の場合、抱いても不毛だとわかっていても不安感が押し寄せてしまう。自分の「好き」に彼女たちも入れたいのに、どうしてもその境界線を越えさせることができない。


以前はそれで失敗してしまいました。

人を好きになる分、その人の好きな人に対して「今の立場を奪われたくない」という感情が強かった。

だからこそ友達になれるかもしれなかった女の子たちとの交流を「仲が良いから」という理由で避けてきて、素敵なもので溢れている子であってもどこかしら嫌なポイントを見つけようとしてしまっていた。

でもこれって絶対マイナスですよね。出会いもあったもんじゃない。


シングルになって5ヶ月経った今、私が抱いていたその不安と理不尽な嫌悪は完全に異常な感情であったことがわかります。

きっと私が好きな人には私の他の「好き」も気に入ってほしいと切望していたように、相手もそうだったはず。

以前、好きの増加と嫌いの増加は比例していた。でもそうするべきではなかった。


▽自己完結の「好き」は成長しない

「好き」という感情はプラスの感情だと言いました。

ただの自分のエゴかもしれないけれど「好きな人のプラスの感情の幅が広がるといいな」と思って自分の「好き」を共有してきたのにも関わらず、それが自分の立場になると何故か拒絶してしまっていた。

だから私の「好き」の幅はいつも自己完結していて、自分で開拓していかない限りなかなか広がることはなかった。

いつも相手の「好き」に対してライバル心を抱いていた日々は正直とっても疲れるもので、どんどん卑屈になっていく自分が嫌いでした。

「好き」が生む「嫌い」って、結局プラマイゼロじゃないですか。意味がない。

しかもそれを他人に言う勇気がなかった。無駄に高いプライドを知られるのが嫌で、比較対象に入れるべきではないものと比べて勝手に落ち込んでいることを知られるのが嫌だったから。


▽「好きな人」の「好き」は最強

「こんな簡単なことに21歳になってやっと気づくなんて」、と言われても仕方がないし、実際酔っ払って友達に全部打ち明けた時に「だっせえなあ」と笑われてしまいました。それで私も自分のダサさに笑いました。

自分の中のちゃちなプライドをひた隠しにして格好つけて、「好きな人の好きな人は嫌い」という感情を奥底に持っていた私は正直ダサかったし、友達には「ヤキモチなんて妬かないよ」なんてドヤ顔していた私、心底やべえ奴だったと思います。

でもやっと自分のダサいところを認めることができるようになって、それを人に話して笑うことができるようになって、多分次好きな人ができた時は「好きな人の好きな人ってめちゃめちゃ素敵なのでは〜!」と思えるようになっていると思います。

というか、自分の好きな人が認めた人って絶対に素敵ですしね。もしも素敵じゃない人を選ぶような人だったとしたら、シンプルに私の見る目もゼロだと考えて間違いない。

なんでこんな単純なことに気づかなかったのだろう。


こうやって好きの増加と嫌いの増加の比例の法則を断ち切っていって、餓鬼だった自分もちょっとずつ大人になっているのだなあと思うことができるようになったのです。


みなさん、「好き」のゲシュタルト崩壊はしましたか。私は自分で書いて自分で沼にハマってしまいました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

もしも自分の好きな人の好きな人に対してもやもやしてしまう人がいたとしたら、私の独り言がそのモヤモヤに対してちょっとプラスに働く手助けになったら嬉しいです。


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