僕が有名になりたい理由。


ルールが昔から嫌いだった。


それは、規則や校則のような「決まり」だけのことではなく、組織を形成する人によって作られる暗黙のルールのことだ。

そいつにイラ立ちを覚えたのは高校生のとき。僕は中高一貫の進学校にいたこともあって、まわりの皆は狂ったように受験勉強に必死になる。学校側からすると、もちろん高学歴人材の輩出実績をつくりたいので、いい大学に生徒を合格させるための教育に力を入れていた。

僕は運よくいちばん上のコースにいたので、「東大志望」「京大志望」の人たちに囲まれながら高校生活を送っていた。国立大学に行くのは当たり前というだけではなく、大学で人生が決まるという風潮が確かにそこにはあった。それを信じ切った生徒たちは自分の頭脳の偏差値をあげることだけに躍起になり、いい大学に合格することだけが正義だという学校内での暗黙のルールができあがっていたのだ。

学年が上がり、大学受験までの期日が迫ってくるにつれて、友人間で交わされる会話の中からマンガやアイドルの話は消えて、入試問題の傾向と対策の話だけになっていく。バカなことをしてふざけあっていた友達は、ただひたすらに問題集にかじりつくロボットに変貌を遂げていた。

僕はそれがめちゃくちゃ悔しかった。お前ら勉強ばっかして何がしたいねん!と理不尽にキレたりもしたけど、そいつらと一緒に何がしたいのかもわからなかった。ただ、漠然とした暗黙のルールに抗いたかっただけなのかもしれない。でもやっぱり、みんなの個性が消えてなくなって、友達を表すハッシュタグが#〇〇大学志望#偏差値〇〇だけになっていくのが悲しかった。

とはいえ僕は僕で、俺は大学には行かずバンドマンを目指す!(当時の夢)という覚悟も力もなかった。結果、友達の輪の中に入るために受験勉強を頑張ることにした。

結局は怖かったのだ。まわりから冷ややかな目で見られるのが。暗黙のルールが嫌いな理由がまさにこれだ。なぜか組織の中では勝手に正解がつくられていく。いい大学に行くのが正解、単位を取るために勉強するのが正解、就職するのが正解、、そしてその正解からはみ出る者は冷ややかな目で見られる。

右向け右が嫌だった。まわりがやってるから自分もやらないといけないのが嫌だった。我慢してまわりに合わせる自分が嫌だった。やりたいことがないと言ってる奴らが嫌だった。なのに、それなのに、道を踏み外すのが何よりも怖かった。

結局僕は、有名国立大学に進学し、有名大企業に就職した。まわりに劣りたくないというプライドを優先した。世間ではエリートコースと呼ばれる道を進んできたのかもしれないが、そこには何もない。いちばんダサいのは僕自身だった。

だいたいの人を嫌いになった。何がしたいのかが明確じゃないのにいい大学を目指すやつ。いい企業に就職するためにOB訪問を繰り返すやつ。本気でやりたくもない仕事を頑張るやつ。暗黙のルールに従いながら、その中で真面目に頑張る人たちを気持ち悪いと思った。自分には夢があるという理由だけで、その人たちと一線を引いていた自分がいた。その夢を叶えるために、本気で行動を起こしているのかと聞かれるとそうでもない。いちばん気持ち悪いのは僕自身だった。

ずっと仲間がほしかった。一緒に右向け右の環境から抜け出してくれる外れ者を探していた。大学受験の時、まわりに八つ当たりしたのは寂しかったからだ。お前ら勉強ばっかして何がしたいねん!と、まわりを変えようと叫んでいた。でも、それは間違っていた。仲間をつくりたかったら、自分がリスクを負って挑戦するしかないということがわかった。勇気ある行動をもってして、自分の信念を叫び続けるしかないのだ。そうすることでしか共感する仲間は集まってこない。

自由に自分を表現する人を増やしたい。今はそう思える。友達の個性がだんだんなくなっていくのが悔しかった。なぜか勝手に世間の正解ができあがっていくのが苦しかった。だからこそ、まわりと同じように何かを目指すのではなく、自分の心と向き合い、ありのままの個性を、本気で好きなことで表現する人たちであふれる世界になればいいと思う。そのためには他人に生き方を強要するのではなく、僕自身がワクワクすることに挑戦し続けて、こういう生き方もあるんだぜ?ということを発信し続けないといけない。僕と同じように息苦しい思いをしながらも、自分は一歩を踏み出せていない人たちに勇気を届けたい。だから僕は有名になりたいのだ。


#生き方 #挑戦 #表現 #個性 #エッセイ

基本的に記事は喫茶店で書きます。その時のコーヒー代としてありがたく頂戴いたします。