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草いきれ 香・大賞


落選したやつ。




 保健室からの呼び出しで、午前のまだ早い時間にアパートを出て娘を迎えに小学校まで歩く。

新しく決まった仕事の開始がまだの私は、Tシャツにジーンズ
皆が仕事に出かけていった後の空っぽな町を歩く。

この町の下には山から降りてくる美しい水が脈のように流れていて
引っ越し先の古いアパートのすぐ側にも小川があって
晴れていてもいつも雨が降っているような音がする。

九月
まだ真夏みたいに暑い

誰ともすれ違わない。

夏休みの間に引っ越しをして
娘は私の故郷である田舎の小学校へ転校した。

夫から離れるために私は全力を振り絞った。

会社や家族や友人や周りの沢山の人に迷惑をかけ
一番愛しい我が子を傷つけた。

色が白くて髪が長くて、聞いたことのない方言で話す娘は転校先で目立った。

保健室から電話がかかってくる。

彼女の体調が悪くなるのは、ここに連れてきた私のせいだ。

学校へ続く細く急な坂道を登る。

私はここの生徒だった頃、毎日この急坂をマラソンの練習で走らされて、
栗の木の匂いにえづいた。

娘は毎日この坂を登っているのか。

私には全てがノスタルジィに塗れた特別な田舎は
彼女にとっては何もない寂しい場所でしかない。

坂の途中で両脇の草むら、畑、果樹園、お墓の間から匂いが立ち上る。

「草いきれ」

今まで何度も嗅いだことがある香りと何度も読み聞きしてきた言葉が初めてぴんと合致する。
体感した。

これは夏。

若いにおい。

おえってなる。

生きている。

 保健室で寝ている娘はめちゃめちゃかわいくて、私は泣くのを我慢する。

喋らない娘と手を繋いで坂を下りる。

小さな町が夏の陽できらきらしている。
草の香りがいっぱいの坂を降りながら
これからやってくるだろう全てに、私はどうしても負けまいと思う。

 引っ越して三度目の夏の終わり、小学校の草刈りに娘と行く。

草いきれの中、刈られた大量の草が軽トラックで運ばれていく。

こっちの言葉で私と娘は毎日話して笑っている。

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