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小説『ニ十歳の私より』

本作は以前、小説投稿サイト「カクヨム」に投稿・掲載した作品でしたが、思うところあって非公開に。
個人的にnoteでは記録性を重視しているため、本作をこちらに転載したいと思います。なお、本作はフィクションです。

〈キャッチコピー〉
「これは遺書ではないので、決して<ありがとう>は使いません。」
小説ジャンル:現代ドラマ( 3,171文字)

綾波アヤナミ 宗水シュウスイ

『ニ十歳の私より』

副題:今日以外のすべての瞬間へ

 今日は私の誕生日です。
 それも、ニ十歳の誕生日です。こう書いておけば、いつの時代に読んでも、私を知る人であれば、あぁ、何年の頃のものか、とはっきり理解できると思います。
 これも歴史学を勉強している人間の性なのでしょうね。

 今朝の私は、できるだけ今後も明るい日々をおくれるように、少しだけ着飾って、軽くメイクも済まし、キャンドル(チョコレートの香り)に火をつけ、買っておいたマリトッツォと紅茶を味わいました。優雅でしょう?
 でも、内心はそんなに有閑階級のようなゆったりとしたものでもありませんでした。

 十代が終わった。
 前日はそれほど強く印象はなかったのだけれど、今朝は不思議と何を見てもそう感じてしまいました。
 家具の埃を払っても、それこそキャンドルの揺らめくちっぽけな炎を見つめても、その感傷は影のように、つきまとっていました。

 いいえ、『影』はつきまとうのではありません。
 影というのは、理科的に言えば光の対極的な存在なのでしょうが、日本では『○○のおかげ』といったような、影響力を持つ存在なのです。

 私はいつものように日記を開くと、高野悦子さんの『ニ十歳の原点』の最も有名なフレーズ、『「独りであること」、「未熟であること」、これが私のニ十歳の原点である』と書きました。
 でもそれは、今の私にとって、十代の頃に憧れた行動であって、現状に関する宣言とは決して言えませんでした。

 だから私は、この手紙とも日記とも言えないものを残すことに決めたのです。
 ですが、これは何も遺書ではないのです。
 だから、両親や友人たちへの感謝は絶対に書きません。
 これが私のニ十歳の原点なのです。ごめんあそばせ。

 思えば私の自我というものが、仮にあると想定したとき、それは小学生の頃に読み、以来、強烈に影響を及ぼし、時にはそれに反発してきた、かの名探偵シャーロック・ホームズを挙げないのは、大いに間違った歴史的推論と言えるでしょう。

 でも、もし私が将来、偉人になって、伝記が出版されるようになったとしましょう。
 その伝記作家が、ことさらにホームズのことを書き連ねているとしても、やはりそれは私のうわべしか読み取れていないのです。

 ホームズ物語との出会いは、聖バーソロミュー病院ではなく、よく行っていた比較的大きな書店でしたが、ホームズ自体との出会いは『名探偵コナン』です。
 子どもながらに、やはり探偵に憧れたのでしょうね、私はコナン君が信奉するホームズというキャラに惹かれたのです。
 でもそのバックボーンには、『古畑任三郎』が好きだった、というのもあります。
『古畑』は推理ものではホームズに近い存在ですので、私がその後、杉下右京なども好きになるのも、結局は必然的なのでしょう。きっと。

 ホームズを知った同時期、私は同性でありながら、本当に恋をしてしまったキャラクターがいたのです。むしろホームズという架空の存在に尊敬できるメンタリティーの賜物とも言えるでしょう。
 そしてその存在こそ、綾波レイ、その人です。

 その時私は迷いました。
 ホームズでもそうですが、好きになった存在と同じようにしていたい私、でも綾波レイの生き様はいつまで経っても憧れのまま。
 もちろん、事件を解決したことなんて、一度もないけれど、それでも、犯罪学や科学雑学の知識は少しずつ増えてきていた頃合いなのに、綾波レイにはどうしたって近づけない。
 境遇も意志も容姿も、そして生き様も…………

 だからでしょうか、クラスでもその当時、イケメンで成績も優秀だった子から告白された時も、私はふってしまいました。両想いだったの、ね。
 ちぐはぐな心はやがて、他のアニメを観たり、科学ではなく哲学や文学へと進むことで癒そうとしていきました。
 それが結果的に、十代の多くの時間を<ホームズ・レイ時代>ではなく、<フィクション鑑賞時代>と感じさせることになるのです。

 もし私が真に<ホームズ・レイ時代>の継承者・王朝であったなら、今朝の、あのような過ごし方は絶対に現実化しないのですから。
 大きな理想を打ち立て、現実と向き合う為に、哲学や文学による別の幻想を用いた。それが十代の私。パンが無ければクッキーを、といったような自分だけの王国。

 いや、今日という日が終わる前に、未来にまでタイピングする必要があったのを、私は忘れてました。
 ともかく十代はこのようなものでした。
 ニ十歳の誕生日。十代の延長線上。
 何も変わらない毎日がこれからも続くはず。
 もちろん、明日、オリンピックの云々とは関係なく戦争状態になるかもしれない。
 今私が書いているSFラブコメみたく、人間を超越した存在が現れないとも限らない。

 人間は知覚できる範囲でしか学問も芸術も生産・消費できない。
 それは内なる私が一番よく理解しているつもりです。
 でも《《これ》》を書く意味は?
 どうして私はせっせと文字を脳裏で、そして前頭葉で探しているの?

 気づけば私は、過去を総決算するつもりで、元カレ宛てに「今夜ひま?」とうっていた。二十代に対する背水の陣なのかな。

 きっと、ありがとうも言えなければ、遺書にもする勇気のない日々への虚無が十代の死によって、台頭し独裁政権として暴走したのだろう。
 プラトンさんの理想とする哲人国家とは程遠い現状ね。

 苦し紛れに麦茶を飲むも、どこか錠剤を思い出してスッキリしない。
 明日はもう、同じ毎日。だから私は焦っているんだ。
 今日以外のすべての瞬間は、常に等しい時の流れ。
 早いや遅いというのは今と比べてしか測れない。時計を持たない行雲流水な生き方をしている人に、『今日はいつもより時間が経つのが遅いですね』といっても始まらない。

――ごめん、門限あるから――

 元カレからそういうメッセージが届いたとき、私の目的は達成された。
 サヨナラ、元・十代の自分。
 彼の《《ウソ》》によって、ようやくニ十歳へと押し上げることに。

 じゃあ、失恋の他にあとしなければいけないのは、失恋による散髪。
 私はホームズと綾波レイと別れるんだ。もう、後ろ盾も後見も後ろ髪をひく者もいらないし、彼らの介入も絶対に許さない。
 それが今この瞬間の原点にして、今後の一瞬一瞬への原動力。

 未来で読んでいる私へ、もしくは誰かさんへ。

 もしかすると、今日この時この瞬間の決意とは裏腹に、誰か、それとも何かにまたもや憧れ、私淑しているかもしれませんね。
 それが過ちかどうかはもはや、更なる後の歴史家にお任せする他ないでしょう。
 私が十代の頃を○○時代と称したように、今の私はさしずめ『超人思想時代』と言っているかもしれませんね。

 そうなのです。所詮、いっさいは時のさだめ。
 無常観などという抹香臭い話は書きませんけど、それでもやはり、遺書っぽくならない為には、現在史観とでもいうような話の展開は無意味なのです。そうでしょう?

 今、私は映画を観て、その感想を十代の頃と同じようにSNSに投稿しています。
 きっとこれからもそうする気がします。
 現状は変わりません。いや、変えられないのです。
 ですのに私たちは、意思を《《意志》》によって変えられると信じているのです。宗教も科学もあったものではありません。
 今これを読んでいる時には、それらに代替する学閥が出現しているかもしれませんね。

 というより、今の私自身がまじないめいているかもしれませんね(笑)
 <ホームズ・レイ時代>が資本主義。
 <フィクション鑑賞時代>は中間に属する社会主義。
 そして、権威などによる差異を消失させた、高次的社会である共産主義。それが今の私、<超人思想時代>なのかな、と。

 マルクスとエンゲルスの宣言ほどの影響力はないし、現代社会のように、ニ十歳のこの思いは数年後、いいえ、書き終えたその瞬間に失敗するかもしれません。
 でも、易姓えきせい革命は今日、遂げられたのです。
 今の王朝が良き政道を歩んでいなかった時、これを読み返した私がきっと、天誅を起こしてくれると信じて。

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