見出し画像

上野上村城と御所山誓願寺

画像5


 三河戸田氏ゆかりの上野上村城と御所山誓願寺へ行ってみる。

 場所は愛知県豊田市の東名高速道路「豊田JCT(ジャンクション)」のすぐ近くであるが、城マニアの間では、「分かりにくい城」として有名であった。上郷コミュニティセンター前の案内図(上の写真)や、同センターに置かれている無料パンフレットを見れば見つけられると思うが、上郷コミュニティセンターも分かりにくい場所にある。(カーナビがあれば迷わない! それに「上野城址」という看板が道路側に移されて目立つようになった!)

画像6


 上野上村城は、「戸田氏が築いた城」というよりも「榊原康政生誕地」「酒井将監忠尚の城」として有名? 今は桜の名所・・・。

■『三河国二葉松』「三州古城記」
上野上村古城:戸田小法師、戸田三条家庶流、尾州戸田郷配流。其の後、三州上野村へ移る。同孫四郎家光時代、同国田原に移る。
其の後、酒井将監忠尚、住す。左衛門尉忠次が兄也。永禄6年、落城。
同下村古城:内藤弥次右衛門清長、同四郎左衛門正成。

■『三河国名所図会』
http://iwasedb.jp/pdf/036-25.pdf

画像7


 三河戸田氏の菩提寺は誓願寺である。
 「松平元康公(徳川家康公)開運の井」があったというが、今はない。

 戦国時代、誓願寺には決して枯れない井戸があった。ある日、若武者が来て、その井戸水を所望したので、飲ませてやったという。この若武者を松平元康といい、後に徳川家康と名乗って天下を取ると、「天下を取れたのは、誓願寺の井戸水の御利益」だとして、誓願寺領の年貢を一部免除したという。

 ──これはいつの話だろう?

【心の声】 徳川家康が松平元康時代に上野に来た時と言えば・・・開運と言えば・・・初陣の時か? 「三河一向一揆」の時に逃げ込んだのは隣松寺だし・・・。開運で思い当たるのは、今川家から離れることができた「桶狭間の戦い」か・・・。

 「桶狭間の戦い」の日(永禄3年(​1560年)5月19日)の夜、松平元康は、7人の家臣と共に大高城を抜け出し、矢作川を越えようと、鎌倉街道「上の渡り」(鎌倉街道には「上の道」(上の渡り:北野⇔大門)と「下の道」(下の渡り:渡⇔上和田)があった)を目指した。

 上野を通り、北野の「御清水」で湧き水を飲んでいると、長瀬八幡宮から3匹の白鹿が現れ、矢作川を対岸(大門)の八剣神社(愛知県岡崎市大門)まで渡って見せた(渡河点「三鹿の渡り」を教えてくれた)という。

画像13

■『開山伝記并基立由緒之事』「十三世登誉天室」(大樹寺文書)
 十三世登誉天室相州小田原之人也移住従京都東山一心院言伝也形状不分明家康公御帰依之住僧也其由者永禄元年尾州与三州境目一戦之時家康公岡崎城御座砌也彼戦場之様体為一見本多平八等主従八騎御忍彼城外之松原中ニテ夜ヲ明れ爾来明ヨリ合戦無間而不分勝負公見之駿河方松平勘四郎江加勢而松浜ヲ伝敵ノ横合近クニ忍ヒ主従八騎鏃調如雨射掛敵被射立敗軍故公帰城之時経山路上野村出爾ルニヤ矢作川満水故大門之郷江渡兼給所ニ鹿ノ一疋来り渡ル本多平八云伊賀八幡鹿渡給是河渡神瑞也云先前乗込家康公余六騎共乗込河渡無難(従爾名鹿渡)岸上見跡時上野而旗数多見敵大勢追掛来公云無下ニ後ヲ見モ無云甲斐此河岸ニ侍請可為討死被仰供奉面々承先大樹寺有入御可然諌公随此語則入大樹寺欲為自害時鎖門戸其間敵追掛大勢鉄砲打(塔九輪之二目当破)於爰登誉諌云惣名将者可重命不可軽寺内塔頭有一百軒彼等為致後詰者奉身命拒戦豈不得一旦利乎公曰出家後詰如何登誉曰山門三井是其例也誰人論之有何恥辱公聞此語而止為死随師諌言戦敵即切出給時鎖門戸不及是非関貫木二刀切給也(関貫木什物有之)依之急鐘撞大衆集三十人為騎馬武者七十人為歩行武者納所祖洞七十人力此僧厭離穢土欣求浄土之幡為軍陣旗出陣不顧身命拒戦故多討死其間法師武者家康公供奉帰入岡崎城爾以来公登誉御帰依不浅也此時永々至末孫迄可為浄土宗有御誓約御信弥深重也一月中御対顔度度々不隔五日也大事之出陣者旗有御所望時公日比旗指挙出陣時可勝不可負心無思惟無念無想而唯南無阿弥陀仏計可念既被弘誓鎧之鎧着利剣即是弥陀号之太刀帯皆是他力本願之粧也然則自分働上他力本願之物具他力護念之加勢仏智不思議智軍法天魔拱手所以無住勝負念矣公於此委悉御得心出陣之時果而勝利数度也出陣之節者受得十念也爾後経数月為討死大衆有追善供養也永禄十二己巳年六月廿五日家康公守護不入等式目御書判登誉被下置也元亀二年辛未六月十七日寂

◆永禄元年(永禄3年(​1560年)5月19日の誤り)尾州(尾張国)と三州(三河国)の境目(国境)の一戦「桶狭間の戦い」の時、言い換えれば、松平元康公の岡崎城へ御座(帰城)の時のことである。戦場の状況を見て、本多平八(本多忠勝)等の家臣7人と共に、主従8騎で、密かに大高城を出て、城外の松原に潜んで夜を明かした。夜が明けても、合戦は続いていて、勝負はついていなかった。松平元康公は、これを見て、駿河方(今川方)の藤井松平家2代・松平勘四郎信一へ加勢して、松原を伝って敵の側面近くに忍び寄り、弓矢を雨の如く射掛けたが、敵もやり返してきて、松平信一軍が敗けたので、岡崎城へ帰ることにし、山道を通って(安城市里町森の不乗森(鎌倉街道宮橋里)、もしくは、瀬戸市品野(今川方の品野城)を経て)上野村に出て、矢作川を渡ろうとするが、増水のため、対岸の大門郷へ渡りかねていた所に、鹿が1匹出てきて矢作川を渡った。それを見た本多平八が「伊賀八幡宮の使いの鹿が渡った。これは、神のお導きである」と言い、先ず前(さき)に矢作川に乗り込み、続けて家康公と残り6騎も矢作川に乗り込み、難無く渡り切った(この事により「鹿渡」と名付けられた)。

※本多忠勝は、兜につける鹿の角の制作を伊賀八幡宮に依頼し、伊賀八幡宮では、御札を貼り合わせて角を作ったという。(また、鹿の渡河を見つけたのは、本多忠勝ではなく、石川数正だともいう。)

※「鹿渡」は源頼義の故事、「三鹿(御鹿、見鹿)の渡」は松平元康の故事、「鹿ヶ松」を水源地とする「鹿乗川(かのりがわ)」は鹿に乗って渡河したという足利尊氏の故事による。

画像12


 「3匹の白鹿」(『開山伝記并基立由緒之事』では1匹。渡刈(十鹿里)なら10匹出てきそうだが)は伝説で、史実は「3人の白装束の長瀬八幡宮の神職」であろうが、渡河点(浅瀬)を教えてもらっても、梅雨で、昼は暴風雨だった。矢作川は増水しており、徒歩(かち)で渡れるはずがない。

 そもそも、古来から神の使いといえば、「八幡様は鳩、春日様は鹿、熊野様は鴉、日吉様は猿、お稲荷様は狐」とされており、八幡様の使いが鹿というのは腑に落ちない。近くの式内・糟目春日神社(愛知県豊田市渡刈町北田)の神だというのであれば、納得するが。松平氏を助けるのであれば、六所神社の事勝国勝長狭神が亀に乗って現れるとか、猿田彦命が天狗の姿で現れて浅瀬を案内するはず。(この頃の松平元康は、駿府に長年住んでいて、岡崎を離れていたから、鹽竈信仰よりも八幡信仰なのかな。その八幡神は、松平元康を助けたと言うよりも、本多忠勝を助けた感じがするけどね。)
  また、「長瀬八幡宮由緒」の「永禄3年9月19日」は、永禄3年5月19日の誤り。手書き原稿の「五」が業者には「九」に見えたのでしょう。

画像12


 とすると、史実は、「松平元康は、上野を通る時に誓願寺で水を飲み、配津八幡宮(現在、「德川家康渡船之所碑」が立っている場所)から配津村の船頭・半三郎の舟で矢作川を渡った」ということなのかもしれない。半三郎は、礼として銀銭と長刀を頂戴したといい、証文も残っている。(渡刈には、対岸の真福寺への参詣のための渡し船があった。)

伝承:御清水、長瀬八幡宮、三鹿の渡り(上の道)
史実:誓願寺の井戸水、配津八幡宮、渡刈(糟目)

 矢作川を渡った松平元康は、大樹寺に入って3日間様子を見てから、岡崎城に入った。
 この時、大樹寺で、松平元康は、日頃から大樹寺で学び、大樹寺に避難していた聡明で達筆の「亀丸」(亀、於亀)という幼名の少年に出会って惚れ込み、小姓とした。この亀丸こそ、後に「徳川四天王」と呼ばれることになる榊原康政である。(榊原氏は仁木氏の分家で、康政の「康」は、家康の「康」の 偏諱(へんき。漢字2文字の諱(いみな)のうち、通字ではない方の漢字)である。)

ここから先は

2,771字 / 7画像

¥ 500

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。