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第22回「設楽原の戦い」(予習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、自害(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。


■「長篠の戦い」

 私のマニアックな詳細記事を読む人は40人くらいであるが、今週の記事は倍の80人くらいの方が読んでくれた(嬉々)。「長篠の戦いは有名だから詳細記事でも君についていけるよ」ということなのだろう(多分)。

5月  8日 武田勝頼、長篠城を包囲
5月10日 徳川家康、織田信長に援軍を要請
5月12~14日 武田勝頼、長篠城を攻撃
5月13日 織田信長、岐阜城を出発
5月14日 織田信長、岡崎城に到着
      鳥居勝商、長篠城を脱出
5月15日 鳥居勝商、岡崎城で織田信長に謁見
5月16日 武田軍、鳥居勝商を捕縛→翌朝、処刑
5月17日 織田信長、徳川家康と野田(牛久保?)で合流
5月18日 織田信長、徳川家康と設楽原(有海野)に到着
5月20日 酒井忠次、鳶が巣砦を奇襲
5月21日 「設楽原の戦い」
5月22日 織田信長、磔にされた鳥居勝商を見て合掌
5月25日 織田信長、岐阜に凱旋

 城兵500人の長篠城(城主・奥平信昌)を、武田勝頼は15000人で取り囲んだ。火矢で食料庫を焼いての「兵糧攻め」である。武田勝頼は長篠城を餌に徳川家康の出陣を待つが、徳川家康にしたら8000人で出陣しても15000人の武田軍に負けるに決まっているので、出陣せず、織田信長に救援を頼むが、断わられた。そこで徳川家康が「援軍を送らないのであれば、同盟を解消する」と言うと、織田信長は自ら30000人の兵を率いてやって来た。武田勝頼にしたら、織田信長の出陣は想定外だったと思われる。立場逆転!!!
 「長篠の戦い」は「織田の鉄砲隊 vs 武田の騎馬隊」というけれど、

 奥平(500)+徳川(8000)+織田(30000) vs 武田(15000)

「38000 vs 15000の野戦」(武田勝頼に言われば「15000人で城攻め」)だから、普通に戦えば、倍以上の兵数の38000人の方が勝つ。なぜ武田勝頼は逃げなかったのか?


 前回の鳥居勝商の働きであるが、『長篠日記』では、「織田信長に兵糧がないと伝え、援軍をよこさなかったら武田勝頼に城を明け渡すと言え」と城主・奥平信昌に頼まれたとある。江戸幕府の公式記録『寛政重脩諸家譜』では、雑兵・鳥居勝商が織田信長に会えるはずが無く、岡崎城にいた奥平信昌の父・奥平貞能に会って奥平信昌の手紙を渡し、奥平貞能が織田信長に伝えたとしている。どちらも徳川家康の名が出てこない。どうも城主・奥平信昌は、徳川家康が8000人を率いて来ても負けることが分かっていて、織田信長の援軍に期待していたようである。(一説に徳川家康は既に出陣していて、岡崎城にはいなかったという。)

 5月20日の「設楽原の戦い」の翌5月21日、織田信長は磔にされた鳥居勝商の姿を見て、手を合わせたと伝えられている。(処刑は17日の早朝だったというから、4日間も晒されていたことになる。合掌。)
 さらに、同日、織田信長は、古呂水坂で長篠城主・奥平貞昌を賞賛し、「信」の一字を与えて「信昌」と名乗らせたと伝えられてきたが、現在では、「長篠の戦い」以前に「信昌」と名乗っていたことが分かっている。

 そう言えば、前回のラストシーン──鳴子が鳴るのが良かった。鳥居勝商の霊が揺らして鳴らしたのでしょう。モチーフは、長篠城からの脱出者を捕らえるために武田軍が豊川に仕掛けた鳴子ですね。
 あと鳥居勝商が「夢をみていて捕まった」と言ってた人がいたけど、寝てないよ。起きてたし、走ってた。あれは「夢」じゃなくて、「こうなればいいなと、走りながら脳内に描いていた最高の未来図」だよ。

■鉄砲の三段撃ち

 さて、「設楽原の戦い」である。「設楽原の戦い」といえば、「鉄砲の三段撃ち」である。(時代考証の平山優氏は、古文書の「段」は「団」の意味なので、3ヶ所で撃ったとするが、「3ヶ所」ではないと思う。『信長公記』によれば、指揮した鉄砲奉行は佐々、前田、野々村、福富、塙5人なので、5ヶ所(5団)かと。『長篠日記』では、鉄砲奉行は佐々、前田、福富、塙、野々村、徳山、丹羽の7人で、「千挺宛(ずつ)放ち掛け、一段宛立ち替わり打つべし」とある。)

 「鉄砲の三段撃ち」は岡崎信康の発案とされる。
 岡崎信康を描いた映画『反逆児』のオープニング──豊臣秀吉を連れて徳川家康の救援に向かう織田信長が「新しい戦法を思いついた」と豊臣秀吉に言う。「教えてください」と食い下がる豊臣秀吉に織田信長はもったいぶって教えない。そして、戦場に着くと、岡崎信康(中村錦之助 )が「鉄砲の三段撃ち」をやっていた。それは織田信長が思いついたばかりの戦法だった。──織田信長に初めて会った斉藤道三は、「我が子たちはあのうつけ(織田信長)の門に馬を繋ぐ(家臣になる)」と予言したというが、岡崎信康に初めて会った織田信長も同様の衝撃を受け、後に「(岡崎信康が武田勝頼と与して我が子の前に立ちふさがる前に)岡崎信康を討て」と徳川家康に命じたとされる。(諸説あり)
 ちなみに「長篠の戦い」で岡崎信康を見た武田勝頼は「今度、三河国に信康という凄い人物が現れた。指揮の的確さといい、進退のけじめの鋭さといい、成長後が思いやられる」と評している(『徳川実紀』)。

岡崎三郎君、この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮し給ふ様を見て、勝頼も大に驚き、帰国の後、その家人等に語りしは、「今度、三河には信康と云ふ小冠者の洒落者出で来たり。指揮、進退のするどさ、成長のゝち思ひやらるゝ」と舌をふるひしとぞ。

『徳川実紀』

★今後の『どうする家康』

・第22回「設楽原の戦い」(6/11)
・第23回「瀬名、覚醒」(6/18)
・第24回(前半終了)「築山へ集え!」(6/25)
・第25回(後半開始)「築山事件、信康事件」(7/2)
・第26回「武田氏滅亡」(7/9)
・第27回「安土城で明智光秀が接待」(7/16)
・第28回「本能寺の変」(7/23)
・第29回「神君伊賀越え」(7/30)
・第30回「賤ヶ岳の戦い」(8/6)
・第31回「豊臣秀吉との確執」(8/13)
・第32回「小牧・長久手の戦い」(8/20)
・第33回「於義丸を豊臣秀吉の人質(養子)に」(8/27)
・第34回「石川数正出奔」(9/3)
・第35回「
・第36回「
・第37回「
・第38回「
・第39回「
・第40回「
・第41回「
・第42回「
・第43回「
・第44回「
・第45回「
・第46回「
・第47回「
・第48回(最終回)「

※大河ドラマガイド「どうする家康 後編」は5月31日に発売されました。※ノベライズ3巻は7月25日、4巻は9月発行予定です。


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