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Recoの君語りー『光る君へ』(第15回)「おごれる者たち」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)

──少女は自分の進むべき道を模索していた。

寛和  2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
               一条天皇(7歳)即位
寛和  2年(986年)「庚申待ちの夜」(「青春篇」終了)
永延  2年(988年)1月29日 藤原道長、権中納言に就任。
永延  2年(988年)源倫子、藤原道長の長女・藤原彰子を出産。
永延  2年(988年)11月8日  「尾張国郡司百姓等解文」(尾張国申文)
永延  3年(989年)6月26日    藤原頼忠(藤原公任の父)、死去。
永延  3年(989年)8月  8日 ハレー彗星出現。「永祚」に改元。
永祚  2年(990年)1月25日 藤原定子(14歳)、一条天皇に入内。
永祚  2年(990年)3月31日~4月1日 藤原宣孝、御嶽詣。
永祚  2年(990年)  5月  8日 藤原兼家、出家。「如実」と号す。
永祚  2年(990年)  6月   清原肥後守元輔、任地・肥後国で死去。
永祚  2年(990年)  7月  2日 藤原兼家、死去。
永祚  2年(990年)  8月30日 藤原宣孝、筑前守に就任。
永祚  2年(990年) 10月 5日 藤原定子、中宮に。
・・・・・・今回ここから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
永祚  2年(990年)11月  7日 「正暦」に改元。
正暦  2年(991年)  2月12日 円融法皇、崩御。享年33。
正暦  2年(991年)  9月16日 藤原詮子、出家。「東三条院」と称す。
正暦  3年(992年)  1月   源倫子、藤原道長の長男・藤原頼通を出産。
正暦  4年(993年)  7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
正暦  4年(993年)     源明子、藤原道長の次男・藤原頼宗を出産。
正暦  5年(994年)~正暦  6年(995年)天然痘の大流行。
長徳  2年(996年) 1月25日 藤原為時、淡路守に就任。
長徳  2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に急遽変更。
長徳  4年(998年)     麻疹の大流行。
・・・・・・第21回(5月26日放送予定)から「越前篇」スタート・・・・


1.「清少納言」という名


 清少納言の実名は不明。ドラマでは「ききょう」ですが、「諾子(なぎこ)」?
 「清少納言」の「清」は、「清原」姓によるのでしょうが、近親者に「少納言」はいません。ドラマでは、「中宮定子が勘違いして名付けた」とする岸上慎二説が採用されました。中宮の女御なのですから、それなりの身分の人物だとしないと、周囲が納得しないのでしょう(今で言えば学歴詐称か?)。

 正確な生没年や本名は不明である。生没年は、岸上慎二による推定である。本名については、江戸時代の国学者多田義俊は『枕草紙抄』において清原諾子(きよはら の なぎこ)としているが、根拠は示されていない。この『枕草紙抄』は考証家伊勢貞丈の遺稿集『安斎小説』にそのまま引かれたため、貞丈の著作として広まった。ただし、貞丈は義俊について「偽を好む癖あり。豪傑なる者なれども其偽大瑕なる可惜哉。彼が著述の書、引書疑しき者多し。」と述べており、また『枕草紙抄』以外の書物に諾子という名前は確認されていない。
 「清少納言」は宮中での女房名で、「清」は清原姓に由来するとされている。「少納言」は官職少納言に由来するものと見られるが、当時女房名に官職名を用いる場合は父親や近親者がその官職にあることが通例であった。清原氏の近い親族で少納言職を務めたものはおらず、「少納言」の由来は不明である。研究者は以下のような推察を行っている。
・女房名に「少納言」とあるからには必ずや父親か夫が少納言職にあったはずであり、同時代の人物を検証した結果、父の清原元輔とも親交があった藤原元輔の息子信義と一時期婚姻関係にあったと推定する角田文衞説。
・藤原定家の娘因子が先祖長家にちなみ「民部卿」の女房名を後鳥羽院より賜ったという後世の事例を根拠に、少納言であり能吏として知られた先祖有雄を顕彰するために少納言を名乗ったとする説
・花山院の乳母として名の見える少納言乳母を、清少納言の夫則光の母右近尼の別名であるとし、義母の名にちなんで名乗ったとする説
・岸上慎二は、例外的に親族の官職によらず定子によって名づけられた可能性を指摘している。後世の書ではあるが「女房官品」に「侍従、小弁、少納言などは下臈ながら中臈かけたる名なり」とあり、清原氏の当時としては高からぬ地位が反映されているとしている。

 語呂の関係からか今日では「せいしょう・なごん」と発音されることもあるが、上述しているように「清」は父の姓から、「少納言」は役職名が由来であるため、本来は「せい・しょうなごん」と区切って発音するのが正しいと思われる。ただし略して「清少」と呼ぶことは江戸時代より一般的に行われていた。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2.テストによく出る藤原道長と藤原伊周の「競べ弓(弓争ひ、南の院の競射)」(『大鏡』)


『大鏡』には、
競射
①藤原伊周が、弓の競射をしていた時、偶然、藤原道長が来た。
②藤原道隆は、藤原道長に参加させた。
③藤原道長は、身分の高い藤原伊周に勝ってしまった。
④悔しく思い、もう2本、延長した。
⑤藤原道長が「私の家から、天皇や皇后がお立ちになるのならば、この矢よ当たれ」と言って射ると、中心に当たった。
⑥藤原伊周が同様に「私の家から、天皇や皇后がお立ちになるのならば、この矢よ当たれ」と言って射ると、矢は外れた。
⑦藤原道長が「私が摂政や関白になるのならば、この矢よ当たれ」と言って射ると、中心に当たった。
⑧藤原伊周が同様に射ようとしたが、藤原道隆は中止させた。
とあります。
ドラマでは、
①藤原伊周が、弓の競射をしていた時、藤原道隆に文句を言うために藤原道長が来た。
②藤原伊周は「皆、わざと負けるので面白くない」と言い、叔父・藤原道長に参加させた。
③藤原道長は、自分より身分の高い藤原伊周にわざと負けた。
④藤原伊周は、「まだ2本残っている。願いを言って射てみよう」と提案した。
⑤藤原伊周が「我が家より帝が出る」と言って射ると、矢は外れた。
⑥藤原道長が同様に「我が家より帝が出る」と言って射ると、矢は中心に当たった。
⑦藤原伊周が「我、関白にる」と言って射ると、矢は外れた。
⑧藤原道長が同様に射ようとすると、藤原道隆は中止させた。
⑨帰宅した藤原道長は、妻に「年下の甥に、大人げなく勝ってしまった」と妻・源明子に告げた。
と変更されました。

 帥殿の、南の院にて、人々集めて弓あそばししに、この殿渡らせ給へれば、「思ひかけずあやし」と、中の関白殿おぼし驚きて、いみじう饗応し申させ給うて、下臈におはしませど、前に立て奉りて、まづ射させ奉らせ給ひけるに、帥殿の矢数いま二つ劣り給ひぬ。中の関白殿、また、御前に候ふ人々も、「いまふたたび延べさせ給へ。」と申して、延べさせ給ひけるを、やすからずおぼしなりて、「さらば、延べさせ給へ。」と仰せられて、また射させ給ふとて、仰せらるるやう、「道長が家より、帝・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ」と仰せらるるに、同じものを、中心には当たるものかは。
 次に、帥殿射給ふに、いみじう臆し給ひて、御手もわななくけにや、的のあたりにだに近く寄らず、無辺世界を射給へるに、関白殿、色青くなりぬ。また入道殿射給ふとて、「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ」と仰せらるるに、初めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給ひつ。饗応し、もてはやし聞こえさせ給ひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「何か射る。な射そ、な射そ。」と制し給ひて、ことさめにけり。

『大鏡』

【現代語訳(意訳)】 帥殿(藤原伊周)が、南の院で人々を集めて弓の競射をなさったときに、この殿(藤原道長)が来られたので、「思いもかけない不思議なことだ」と、中の関白殿(藤原道隆)は驚いて、大層(藤原道長の)機嫌をとり、身分は低いが、藤原道長から先に射させたところ、帥殿の矢の数が残り2本になった時点で、帥殿の負けが決定した。
 中の関白殿も、彼の御前にお仕えする人々も、「もう2回延長なさいませ」と申し上げて、延長なさったのを、(藤原道長は)不満に思いながらも承諾し、「道長の家から、天皇や皇后がお立ちになるはずならば、この矢よ当たれ」とおっしゃって射ると、同じ当たるにしても、なんと中心に当たった。次に、帥殿が射たが、大層気おくれして、手が震えたのであろうか、矢は的の近くにさえ行かず、見当違いの場所に刺さったので、関白殿の顔色は、真っ青になってしまった。
 入道殿(藤原道長)が射る番になり、今度は「私が摂政や関白になるはずならば、この矢よ当たれ」とおっしゃって射ると、初めの時と同じように、的が壊れるほど、中心を射た。興が冷めて、気まずくなってしまった大臣(藤原道隆)は、帥殿に、「(現在2-0。次の矢が当たっても2-1で負けだから)射なくてよい」と命じ、場がしらけてしまった。

3.石山詣(『蜻蛉日記』)

 この頃は、ことごとなく明くればいひ、暮るれば歎きて、さらにいと暑き程なりとも、「げにさいひてのみやは」と思ひ立ちて、石山に十日ばかりと思ひ立つ。
 「忍びて」と思へば、はらからといふばかりの人も知らせず、心一つに思ひ立ちて、明けぬらむと思ふ程に出で走りて、加茂川の程ばかりなどにぞ、いかで聞きあへつらむ、追ひて物したる人もあり。有明の月は、いと明けれど逢ふ人もなし。河原には、死に人もふせりと見聞けど、怖しくもあらず。
 粟田山といふ程に行き去りて、いと苦しきを、うち休めば、ともかくも思ひわかれず、唯淚ぞこぼるゝ。「人やくる」と淚はつれなしづくりて、唯走りて行きもて行く。
 山階にて明け離るゝにぞ、いとけんしようなる心ちすれば、あれか人かに覺ゆる。人は皆おくらかし、さいだてなどして、かすかにて步みいけば、逢ふもの見る人あやしげに思ひて、さゝめき騷ぐぞ、いとわびしき。
 からうじていきすぎて、「走井にて、わりごなどものす」とて幕引きまはして、とかくするほどに、いみじくのゝしる者く。「いかにせむ、誰ならむ、供なる人、見知るべきものにもこそあれ、あないみじ」と思ふ程に、馬に乘りたる者あまた、車二つ、三つ引き續けて、のゝしりてく。「若狹の守の車なりけり」といふ。立ちもとまらで行き過ぎては、「思ふことなげにても行くかな、さるは明け暮れひざまづきありくものぐしてゆぼにこそとあめれ」と思ふにも胸さくる心ちす。げすども、車の口につけるもさあらぬも、この幕ちかく立ち寄りつゝとあみだ騷ぐふるまひのなめう覺ゆること物に似ず。我が供の人僅にある「立ちのきて」などいふめれば、「例も行きゝの人よる所をは知り給はぬか。咎めるは」などいふを見る心ちはいかゞはある。
 やり過ごして今は立ちて行けば、關うち越えて、うちいでの濱に、しにかへりていたりたれば、先だちし人、船に菰やかたひきて設けたり。物も覺えず這ひ乘りたれば、遙々とさし出して行く。いと心地、いと侘しくも、苦しうも、いみじうもの悲しう思ふこと類ひなし。
 さるのをはりばかりに寺の中に着きぬ。

【現代語訳】 この頃は、他の事は何も無く、夜が明ければ愚痴を言い、日が暮れれば歎いて日々を過ごしていた。また、とても暑い時期ではあったが、「このように嘆いてばかりいてもはじまらない」と思い、石山寺に十日間程行こうと思い立った。
 「内緒で」と思ったので、妹にも知らせず、自分の思いだけで、「夜が明けた」と思う頃に(夜明けと同時に)家を出て、小走りに、賀茂川のあたりに差し掛かった頃、どうして聞き知ったのか、追って来る人がいた。「有明の月」(夜が明けても、まだ残っている月。月齢16~月齢29まで、特に月齢20以降の月)はとても明るいけれど、行き交う人はいない。賀茂川の河原には死骸が転がっているということだが、怖くはない。
 粟田山(京都府京都市東山区と山科区の境の山々の総称)の辺りでとても苦しくなったので、休憩すると、心が乱れ、ただ涙ばかりがこぼれ落ちた。「人が来て見られては」と、涙をとりつくろって、ただもう小走りに道を急いだ。
 山科(京都府京都市山科区)で夜が明け、私の姿がはっきりと人目にさらされる感じがして、とてもやりきれない気持ちになった。従者を皆、後に付かせたり、先に行かせたりして、目立たないように歩いて行くと、行き交う人や、見る人が、怪しく思ってひそひそとささやき合っているがとても辛かった。
 やっとの思いで通り過ぎ、「走井(はしりい。滋賀県大津市)で昼食にする」と言うので、幕を引き回し、食事をしていると、ひどく大声で先払いをする一行がやってきた。「どうしたものか、誰だろう。従者が知る者であったら困るし、ああ大変だ」と思っていると、馬に乗った者を大勢従え、牛車を2台、3台連ねて、大声を上げながら移動していく。「若狭守(藤原元尹)の車でした」と(供人が)言う。一行は、立ち止まりもせず、通りすぎたので、「心配事がなさそうに行ってしまったものよ。(宮中では)明けても暮れても腰を低くして歩いている者が、(京を出れば、)このように威張り散らすことよ」と思うと、胸が張り裂けそうな気がした。若狭守の従者で、車の口についている者もそうでない者も、この幕の近くに寄って来ては、騒ぐ様子の無礼さといったら、例えようがない。私の従者が、「行ってくれ」などと言うが、「いつも往来の人が休憩する場所だとご存知なさらぬか。それを怒るよは」と言い返しているのを見る心地はどんなだったことか。
 (若狭守一行を)やり過ごしてから、出発し、「逢坂の関」(滋賀県大津市逢坂)を越えて、「打出の浜」(滋賀県大津市松本町)に死んだように疲れて到着すると、先に行った人が菰屋形をつけた舟を用意していた。何も考えられず、這うようにして乗り込み、遥々と漕ぎ出して行く。ひどく気分がわびしいやら、苦しいやら、たいそうもの悲しく思われることといったら、比べるものが無かった。
 申の刻(14:00~18:00)の終り頃(18:00頃)に、石山寺(滋賀県大津市石山寺)に着いた。


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