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徳川家康はなぜ瀬名姫を助けたか?

──戦国武将が正妻を扱うルールが良く分からない。

於大の方:今川方の水野家の娘。兄・水野信元が今川方から織田方に寝返ると離婚させられた。子(徳川家康)を夫・松平広忠の元に残し、刈谷(椎の木屋敷)へ送り帰された。
②瀬名姫(築山殿):今川家の別家の関口家の娘。「桶狭間の戦い」後、夫・徳川家康は駿府人質屋敷へ戻らず、岡崎城へ入った。後に徳川家康は今川氏から離反したので、駿府に残された妻子(瀬名姫、竹千代、亀姫)は人質扱いになったが、徳川家康は上ノ郷城を攻め、城主の2人の息子と妻子を人質交換した。
③五徳(徳姫):織田信長の娘。夫・徳川信康(徳川家康の長男)が武田方に寝返ったとして自害させられると、子(娘2人)を義父・徳川家康の元に残し、安土へ送り帰された。

於大の方と五徳のケースは同じルールが適用されたと思われる。
瀬名姫の場合、同じルールを適用すれば、夫・徳川家康は今川氏から離反したので、離婚されて駿府に残され、人質交換では子(竹千代、亀姫)のみが岡崎に入るはずである。

──徳川家康が何をしたかったのかが良く分からない。

 駿河国&遠江国&三河国を今川氏が領し、尾張国は織田氏が領していた。
 今川義元は家督を今川氏真に譲って隠居していたが、「三河守」に就任すると、軍勢を率いて尾張国に向かい、尾張国の入口・桶狭間で織田信長に討たれた。この結果、駿河国&遠江国&東三河を今川氏真が領し、西三河は草刈場になった。徳川家康がいる西三河の
・東隣は今川領
・西隣は織田領
・南は海
・北隣は武田領
である。徳川家康がとるべき態度は、今川一門衆として、今川氏と、今川氏と同盟を組む武田氏と共に織田氏と戦うべきであった。神君家康公は、主君・今川氏真を裏切るはずがない。ところが、
・今川氏真に弔い合戦をしようと何度も何度も呼びかけても動かない。
・織田氏や水野氏が攻めてきても今川氏真は援軍を出してくれない。
徳川家康は、三河国の戦国大名ではなく、国衆であるので、主君は自由に選べる立場であった。そこで、「自分と対等だ」と言ってくれた織田信長と「清須同盟」を結んだ。(この同盟締結には、織田方の水野信元と、彼の妹の実母・於大の方の尽力があったことであろう。)
 この永禄5年の「清須同盟」の締結により、徳川家康と瀬名姫は離婚した。

■新説

上記からは、
①人質交換時、なぜ瀬名姫と離婚しなかったのか?
②「清須同盟」の締結時、本当に瀬名姫と離婚したのか?
という疑問が湧くが、実は2つとも旧説であり、新説では異なる。

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