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「七ヶ条の御誓書」は偽文書か?

■「七ヶ条の御誓書」を書いた経緯


 『奥平家家譜』に「徳川氏は、奥平氏に家臣になるよう伝えたが、奥平氏は渋った。織田信長が徳川氏に使者を送って、亀姫と奥平信昌を結婚させることを条件に奥平氏を家臣にせよと伝えると、(織田信長の娘婿の)徳川信康は承知した。元亀4年6月22日、奥平氏に縁談、本領安堵と新領宛行等の条件を示すと、奥平信昌は、徳川家康の家臣になる事を決め、武田信玄は死んだので、武田氏を討つなら今であると言った」とある。

 徳川氏、本多重次に命じ、奥平長蔵を遣りて、密かに之れに帰属の事を諭す。貞能等未だ間を得ざるなり。徳川氏。之を憂ふ。
 信長、西尾吉次をして、徳川氏に説くに、「其の嫡女を信昌に妻すること」を以て、徳川氏、乃ち、家人を召して之れを議す。三郎信康曰く「如くなり。彼を以て我が妹婿と為す也」。信長、之れを聞きて、信康に諭して曰く「信昌、忠勇、人に勝る。緊要の敵境を托する此の人に非ずんば不可なり。且つ、信長に聞きて父の命之也。従へ」。信康之れを諾す。
 六月廿二日、乃ち、本多広孝等を遣り来て、之れを招き、且つ告るに、信昌に妻し、本領・作手、田嶺、長篠の外、更に采地を増し与ふるを以てし、又、信昌の妹を以て広孝の弟・重純に嫁せしむ。此の時に当たりて、信玄の喪を秘すると雖も、貞能父子頗る之を覚り、信昌、「又、去年、勝頼、信玄の為めに酉年の吉凶を占するに、馬前人を去りて仮り君の弁を聞き、信玄、已に年の人なるを以て益其の没するを証し思へらく勝頼、遂に将帥の器に非ず。宜しく速やかに意を決すべし」。

『奥平家家譜』

 『寛政重修諸家譜』に「天正元年(1573年)8月中旬、武田勝頼は、田峯城に入り、馬場信春を鳳来寺口の岩小屋砦、武田信豊と土屋昌次を黒瀬(現・玖老勢)の塩平城、甘利晴吉を作手の古宮城に置いた。そして、浜松城主・徳川家康をおびき寄せて挟み撃ちにしようとしたが、武田方のふりをしていた亀山城主・奥平貞能が徳川家康にその作戦を伝えたので、徳川家康は、難を逃れることが出来た」とある。

 八月中旬、勝頼、長篠の後詰として兵を遠参に出す。馬場美濃守信房、五千余騎、鳳来寺ロに出て二山に屯し、武田左馬助信豊、土屋右衛門尉昌次、八千余騎、黒瀬に陣をとり、甘利左衛門尉晴吉、作手をまもり、勝頼みづから田嶺に陣す。ここにをいて信豊、昌次、作手に移り、設楽にいでて、要害を前にあて東西より御味方の通路をとどめば,東照宮、吉川筋に退かるべし。其の時、貞能、差し挟みて撃奉らむと謀る。貞能、この由を探り知りて、家臣・夏目五郎左衛門治貞をして、ひそかに言上しければ、甲軍の謀、其の図を失へり。

『寛政重修諸家譜』

 奥平貞能のおかげで命拾いをした徳川家康は、8月20日、「七ヶ条の御誓書」を書いて持たせた。

一、【奥平貞信と亀姫の結婚】今度申し合わせる縁辺(奥平貞信と亀姫の婚約)のことは、来る9月中に祝言(結婚式)を行う。この上は奥平貞能&信昌父子のことは善悪ともに見放さない。
一、【本領=作手の安堵】本領及び日近領、並びに、遠江国の知行を安堵する。
一、【田峯菅沼氏の田峯の宛行】田峯菅沼氏の跡職、及び、その親類や被官の知行は、遠江国の知行と共に渡す。野田は筋目次第である。
一、【長篠菅沼氏の長篠の宛行】長篠の諸職及び親類の知行も共に渡す。
一、【三河&遠江国で新領宛行】新知行として3000貫を宛行う。その半分は三河国、半分は遠江国河西(天竜川以西。西遠)である。
一、【駿河国で新領宛行】駿河国の三浦氏の跡職も今川氏真に断って渡す。
一、【信濃国で新領宛行】織田信長の起請文も取る。信濃国伊那郡のことは、織田信長に申し届ける。なお、人質のことは心得た。

以上を神仏に誓って実行しないといけないが、実際は、
①亀姫と奥平信昌の結婚は、3年後の天正4年(1576年)7月、もしくは、12月22日とされる。
②領地については、『徳川実紀』に3年後の「長篠の戦い」の終戦後、「君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又、信昌が妻は、そのかみ、武田が家へ質子としてありけるを、勝頼、磔にかけし事なれば、こたび、第一の姫君を(「亀姫」と申す)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし」(奥平信昌は、徳川家康からも「大般若長光」という刀に3000貫の所領を添えて与えられた。また、奥平信昌の妻は、以前、武田家へ人質として出されていたが、武田勝頼が処刑したというので、今回、長女・亀姫を奥平信昌に嫁がせて聟とした。この婚姻も織田信長の命令だったと伝わる)とある。

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