「七ヶ条の御誓書」は偽文書か?
■「七ヶ条の御誓書」を書いた経緯
『奥平家家譜』に「徳川氏は、奥平氏に家臣になるよう伝えたが、奥平氏は渋った。織田信長が徳川氏に使者を送って、亀姫と奥平信昌を結婚させることを条件に奥平氏を家臣にせよと伝えると、(織田信長の娘婿の)徳川信康は承知した。元亀4年6月22日、奥平氏に縁談、本領安堵と新領宛行等の条件を示すと、奥平信昌は、徳川家康の家臣になる事を決め、武田信玄は死んだので、武田氏を討つなら今であると言った」とある。
『寛政重修諸家譜』に「天正元年(1573年)8月中旬、武田勝頼は、田峯城に入り、馬場信春を鳳来寺口の岩小屋砦、武田信豊と土屋昌次を黒瀬(現・玖老勢)の塩平城、甘利晴吉を作手の古宮城に置いた。そして、浜松城主・徳川家康をおびき寄せて挟み撃ちにしようとしたが、武田方のふりをしていた亀山城主・奥平貞能が徳川家康にその作戦を伝えたので、徳川家康は、難を逃れることが出来た」とある。
奥平貞能のおかげで命拾いをした徳川家康は、8月20日、「七ヶ条の御誓書」を書いて持たせた。
一、【奥平貞信と亀姫の結婚】今度申し合わせる縁辺(奥平貞信と亀姫の婚約)のことは、来る9月中に祝言(結婚式)を行う。この上は奥平貞能&信昌父子のことは善悪ともに見放さない。
一、【本領=作手の安堵】本領及び日近領、並びに、遠江国の知行を安堵する。
一、【田峯菅沼氏の田峯の宛行】田峯菅沼氏の跡職、及び、その親類や被官の知行は、遠江国の知行と共に渡す。野田は筋目次第である。
一、【長篠菅沼氏の長篠の宛行】長篠の諸職及び親類の知行も共に渡す。
一、【三河&遠江国で新領宛行】新知行として3000貫を宛行う。その半分は三河国、半分は遠江国河西(天竜川以西。西遠)である。
一、【駿河国で新領宛行】駿河国の三浦氏の跡職も今川氏真に断って渡す。
一、【信濃国で新領宛行】織田信長の起請文も取る。信濃国伊那郡のことは、織田信長に申し届ける。なお、人質のことは心得た。
以上を神仏に誓って実行しないといけないが、実際は、
①亀姫と奥平信昌の結婚は、3年後の天正4年(1576年)7月、もしくは、12月22日とされる。
②領地については、『徳川実紀』に3年後の「長篠の戦い」の終戦後、「君よりも大般若長光の刀に三千貫の所領をそへて給ふ。又、信昌が妻は、そのかみ、武田が家へ質子としてありけるを、勝頼、磔にかけし事なれば、こたび、第一の姫君を(「亀姫」と申す)信昌にたまわり御聟となさる。これも信長のあながちにとり申されし所とぞ聞えし」(奥平信昌は、徳川家康からも「大般若長光」という刀に3000貫の所領を添えて与えられた。また、奥平信昌の妻は、以前、武田家へ人質として出されていたが、武田勝頼が処刑したというので、今回、長女・亀姫を奥平信昌に嫁がせて聟とした。この婚姻も織田信長の命令だったと伝わる)とある。
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