9月、連休

お墓参りに行ってから振り返りのモードに入って全部悲しくなった。

私は見覚えのある場所に来て、景色を見るだけで簡単に“今”が見えなくなる
“今”がないまま“どこか”を行ったりきたりしてる。
多分病気の始まりは繰り返されていた静かな毎日そのもので、“知っている”のに何もわからない。だから怖いんだと思う。

住んでいる場所が変わらない限り記憶はついて回る。いいことも悪いこともあやふやに混ざって、忘れない限り絡まった重い塊を背負う。古い傷の上に新しい傷を作る。一番上の傷がみっともない剥き出しになっている。


前の職場を過ぎた通りに入ったら、仕事帰りに家の方向がわからなくなって自転車でめちゃくちゃに走り回って泣きそうで動けなくて道路に飛び出すかと思ったのはこの辺だったなと思い出した。
あの時はまるで知らない所みたいに白々しかったけどそこは何も変わらない景色だった。それに自分の体の大きさがわかっている。

労働は毎日いろんな感情をくれた。知ってる人が増えるとみんなの一部になれて嬉しかったし生きててもいいんだって思えたとか、みんな優しくしてくれるのにお昼ご飯食べられなくなって恥ずかしかったこととか、残したの持って帰ると怒られるから駅で食べたこととか、折角お弁当作ったのに残されるなら作り甲斐がないって言われたこととか、寒いけどお金使うの怖いからコンビニでカップ味噌汁買って帰る時間引き延ばしたこととか、障害者の集団が叫び声上げてるのを遠巻きに見てる人の顔を見て胃が重かったとか、バスの運転手さんの態度が障害者手帳を見せると変わることとか
、それでも働いてない時よりママが嬉しそうにしてくれて喜んでくれたこととか、バイトした時のミスを反省したらお仕事覚えるのうまくなって嬉しかったとか、化粧するようになったりスカート履いても怒られないのが新鮮で楽しかったし、きれいな場所がいっぱいあるんだってわかったりした。みんなががんばって生きていて楽しそうにしてるのはいいことだなと思ったこと、家の外にも人間がいて優しいってわかってその側に存在していられることが幸せで嬉しかったこと、たくさん思い出した。でもそれはもう昔で、今の自分はすごくすごく離れた空しか見えない場所にいるみたいだった。

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