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神宮前のアリス=紗良さん、黒猫さんの前を歩く。

アリス=紗良・オットさんの歩く姿をお見受けしてとても嬉しく思ったのは、それが神宮前で、渋谷区神宮前は「あおいのきせき」を僕が命がけで書いていた—書かされていた—場所だったからでもあり、画面の中の彼女が黒猫さんの前を歩いていたことも、其処がキャットストリートだったことを連想して不思議なご縁を賜っていたことにあらためて気付いたからです。

名付けようもないところをあえて言葉にすれば「意識の奥底」の終点を目指して、村上春樹先生の言うところの「井戸を掘る」作業を自覚的に演奏の度、なさっているアリス=紗良・オットさんが、ドイツと日本の狭間(きょうかい)に「在ること」を苦悩されているお姿が赤裸々に記録されているNHKのドキュメンタリーを拝見できたことは、やはり、場所は違っていても空は同じだと言うことをあらためて知るよい機会となったこととあわせて、ドイツに戻られたアリス=紗良さんが無事元気そうに笑っている映像を番組終わりに拝見すると安堵になりました。ありがとうございます。

「Echoes of Life」と「オフェーリア」の最後を共にモーツァルトのレクイエム「ラクリモーサ」へと導かれたことも、僕がかつて挑んだことのある「言葉を見つけて記録する作業」とアリス=紗良・オットさんが挑み続けている「音を見つけて奏でる作業」が同じ「井戸掘り」であり、共にモーツァルトさんが遠い昔に「井戸を掘っ」て届いた深い所に二人とも、或いはそうとは知らずに、たどり着いたことを意味しているように思うのです。なんという不可思議。

「井戸を掘る」事のとてつもない苦労—死の結節点の限界を探る作業ですから、一歩間違えると帰って来れないわけです—と、演奏途中に遭遇なさったご病気が無関係だとは、とても思えません。

当然、お身体を心配してしまうのと同時に、しかし、その作業が居ても立っても居られない、追い立てられるような気持ち、ふたたび村上春樹先生のお言葉に倣うと「遠い太鼓」が鳴り止む事のないことは、痛いほど分かるのです。

いずれ魂の旅がひと段落する事を願わずにはいられません。

ピアノとアリス=紗良さんが、こころと恒常的な調和をみつけることを祈りながら、コンサートホールで再びの邂逅を夢見るのでした。

おつかれさまでした。同志アリス=紗良さん。それまでをお元気で。

追伸・存在

「存在」「境界」「非存在」

三つのありようで存在たりえています。

「ドイツ」「境界」「日本」

「アリス」「=」「紗良」さんは

きっと

「日本」「アリス=紗良」「ドイツ」で

アリス=紗良・オットさんなんだって、僕には、わかります。

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