見出し画像

祝福の食卓


――
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。
――


note という場を借りて約一年、書き続けて来た。

思うに書くことこそが、まさにまさしく「心を守ること」であった。

それゆえに、

一年前の自分と今の自分と、いったい何が違うのか――

また、文章を書き始めた一年前の自分を取り巻く状況と、書き続けた一年後のそれと、どこに差異があるのか――

まことにまことに残念な事実として、一見した限りにおいては、寸毫変わらぬようである。


さりながら、

それでも決定的に異なっているひとつ事があるとしたら、「書いた」という事実である。

それのいかなる文章であったにせよ、「書いたということ」だけが、過去の自分と今の自分とを峻別する、たったひとつの相違なのである。

なぜとならば、

文章を書いたということ、これすなわち「わたしの神、イエス・キリスト」とわたしとの間に取り交わされた、対話にほかならかったからだ。

対話であり、議論であり、喧嘩であった。

祈りであり、訴求であり、抗議であった。

そして、イエス・キリストという神とわたしとの邂逅であり、交わりであり、再会でもあった。


だからここに、「書くこと」によって、わたしの神イエスと私が、いかな対話を交わしたのか、一例をあげておこう。

たとえば、『神殿なんかいらない』という文章において、

私は生まれて初めて訪った教会において、おそらくは生まれて初めて私が出会い、言葉を交わした「クリスチャン」とか「牧師」とかいう当時齢八十であった男が、純度百パーセントの「偽教師」であり、「偽預言者」であることをはっきりと書き表した。

しかし、そのように書き表しながら、

私はこの世の「教会」とか「クリスチャン」とか「キリスト教」とか「ユダヤ教」とかいう愚劣なる、あまりに愚劣なるものをば、一掬の容赦も仮借もなく批判したかったのかといえば、けっしてけっしてそんな低俗で低能で低級なふるまいをしたかったわけではない。

ほんとうにほんとうに私がしたかった事とは、

すなわち、私は「わたしの神、イエス・キリスト」に向かって、以下のように言っていたのである。

俺がお前に罪を犯したというのならば、お前もまた俺に対して罪を犯したのだ、と。


はっきりとはっきりと言っておくが、

「私は神に対して罪を犯しました」という告白をした人間ならば、私は自分自身を含めて、それこそ掃いて捨てるほど知っている。

けれども、「わたしこそイエスに最も愛される友」であると公言できた人間の中で、「神もまた私に罪を犯したのだ」とはっきりと、正々堂々と、面と向かって言い表した人間を、私は私以外で一人も知らない。

たとえば、くだんの齢八十の偽預言者たるクソジジイ様なんかは、まずもって、こんな「罪深き言葉」をば心の片隅に思い浮かべたこともなければ、思い浮かべても口が裂けても言い得なかった、「自称・私は救われた者」なのであろう。

しかし私は違う。

私は母の胎内にあった頃からイエスに知られ、イエスによって選び分けられていた「イエスの最愛の伴侶」であるとともに、「自称・私は罪人の頭」であるがそれゆえに、

ほかの誰にむかってでももない、「わたしの神、イエス・キリスト」に向かって、「お前こそ俺に罪を犯した」と言っているのである。

すなわち、

それは違う、というのならば反論してみせよ…! 「神の言葉」というやつをもって、反論してみせよ…!

論じ合おうでなないか、とはお前の言葉ではないか…!

――というふうに。


だってそうではないか。

イエス・キリストを知りたいと思い立った純真無垢な子どもがために、イエスのかつて始めに邂逅させたものとは、歴然たる「偽教師」であった――

それもイエス自身が二千年以上も前に(そしてそれよりもはるか以前から)、「蛇よ、蝮の子よ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」とまで口を極めて糾弾した、汚らわしき「偽預言者」であった――

それが「神による罪」でないというのならば、「神にけっして罪はない」というふうに、「神の言葉」というやつをもって示してみせよ――。

それができないでいながら、何が「わたしは主である」で、何が「わたしの声に聞き従え」だというのか――?

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい――とは、お前の言葉ではなかったのか…!

「カンタンに人を信じたお前が悪い」とのたまうだけならば、お前は「わたしの神」ではない、

「すべては自己責任だ」という偽りのユダヤ人たちのような口のきき方をするだけならば、お前もまた「サタンの集いに属する者」で、お前こそ悪魔の親玉である、

「イエス・キリストではなく、教会や宗派や教義や神学やを触れ回る者はれっきとした偽預言者である、ということをその身をもって知ってほしかった」だなどと、「獅子千尋の谷」的な訓練を授けたような気になっているのならば、

はっきりとはっきりと言っておく、そんな訓練は「もう終わった」。

それゆえに、

若き日からくり返された「神の訓練」なるものを経て、「わたしは主である」などとのたまうお前に対し、まずもってくれてやるひとつめの言葉があるとしたらば、

イエス・キリストだの、父なる神だのいう存在とは、大変に大変に大変に迷惑千万なバカ神様である、ということだ。

その証拠に、

古代の昔から、地上のすべての民族の祝福がために、まずもって薄情かつ無徳かつ無神経かつ無教養なるアブラハム一族から選ぶような「クソバカ」なやり方をするから、ひっきょう、イエスは十字架にかけられ、殺さければならなかった――

その十字架の死から復活したイエスを、宣教などいう「クソアホ」な手法をもって宣べ伝えようとするから、宗派だの教義だの神学だのいう、サタンの集いに属する偽預言者や偽りのユダヤ人たちやがむらがってやまない汚らわしき巣窟ばかりが、世界中に悪しき蜘蛛の糸をはりめぐらせる事態を差し招いた――

そのようにして、この世に「ザ・滅びの馬鹿」を野放図にはびこらせておくから、私のような無垢でうぶな子どもまでが、汚ならしき蜘蛛の巣にからめとられて、もだえ、なげき、苦しみ、のたうちまわるハメとなった。

――こんなことくらい、いやしくも「全能の神」たるお前にならば、ここで俺にこんなふうにこき下ろされるはるかな以前から、分かりすぎるくらいに分かりきっていたはずである。

分かりすぎるくらいに分かりきっていたのだから、なおもって、俺はここでお前に言ってやるのだ――なぜとならば、「論じ合おうではないか」とはお前自身の言葉であり、かつ、俺にこんなことを言わしめているのは、ほかならぬイエス・キリスト自身であることを、俺もイエス・キリストも知っているからだ。

そして、俺がこのようにして、はらわたも捩れるほどの怒りと憎しみと恨みを込めてイエス・キリストをディスり、糾弾することもまた、イエス・キリストたるお前には「はじめから分かっていた」からだ…!

だから俺は言う。

イエスだろうが、父なる神だろうが、ほんとうにほんとうにほんとうに、はてしもなくクソバカな全能者サマであらせられる、と。

そんなクソバカなる神サマふぜいが、いったい何をなおもエラソーにのたまおうというのか――

こちらに悔い改めてほしければ、まずもって、お前のそのクソバカにして、非道なるふるまいをこそ先んじて悔い改めてみせてみろ――

俺もお前に立ち帰ったのだから、お前も立ち帰れ――

「憐れみ深い」だの「慈しみ豊か」だのいう名前を宣言したならば、その通りに、憐れみ深く慈しみ豊かに「ふるまって」みせてみろ――

野の獣たちが戯れ、空の鳥たちが歌い、地の花々が咲き乱れるかたわらで、なにゆえに貧しき人が泣き、無辜の民があざむかれ、裸の子どもが死のうとするのか――

ただ己が肥え太るためにこそ、ただ己の支配の確立と維持のためにこそ、経済を混乱させ、疫病を蔓延させ、戦争という悪魔の商売をくりかえし――そのようにして億単位の無辜の子どもたち、女たち、男たちの生き血が巨大な蜘蛛の巣によって貪欲にすすりとられていく――

なぜ裁かない、なぜ復讐しない、なにゆえに報復しないのだ――

そのような無情の傍観と無慈悲の不介入に徹するお前のなにが神で、なにがキリストで、なにがイエスはキリストで、キリストはイエスであるというのか――

クソバカ神ヤロウ様としかふるまっていないのに、「公義」だの「正義」だの、あまつさえ「憐れみ深い」だの「慈しみ豊か」だのと、聞いてあきれる、ヘドが出る――

この世に生きたことのある、あるいはいま生きている、あるいはこれから生きるであろういかな偉人賢人の類がお前にハレルヤし、アーメンしようとも、俺はお前の責任をば追及する、それがこの世のあらゆる「馬鹿」と俺との違いである――

この世界のすみずみにいたるまで、偽りのユダヤ人たちの悪しき蜘蛛の巣がはりめぐらされているがそのために、千の数千倍、万の数万倍の子どもたち、女たち、男たちがもだえ、うめき、なげき、苦しみ、のたうちまわっている――

今も昔も、このような状況にたいして、お前に責任がないということは、けっしてない――

全宇宙を統べ治めている神ならば、その神たるお前に、今も昔もこれからも、責任がないということは、けっしてない――

はっきりとはっきりと言っておく、

「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするためにわたしを有罪とさえするのか」などと言われたくらいで、おそれおののいて引き下がったような、くそなさけねぇヨブと私を一緒にするな。

「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするためにわたしを有罪とさえするのか」という言葉に込められた真意の通りに、私は答えてやる。私はヨブ以上に、お前の言葉に込められた「神の本当の思い」にたどり着ける者だからだ。

永遠の滅びが待っているばかりの偽預言者や偽りのユダヤ人たちの作り上げた「閉ざされた言論空間」の中において、アーメンごっことシャロームごっこに欣然として、カルメル山頂のバカ踊りをなぞらえるつもりはけっしてない。

焼き払われたソドムとゴモラの地に背を向け、肉親の安否すら確認しようとせずに、ネゲブ地方で恥知らずな罪を犯しまくった、アンポンタンにしてノータリンなアブラハムみたいな小者ふぜいと私を一緒にするな。

それゆえに、私はお前に答えて言う。

お前が「神の傑作」と誇ってみせたべヘモットはどこにいるのだ? レビヤタンはどこでなにをしているのだ? 

「べヘモットとレビヤタン」を誇ってみせたお前の言葉にお前がひそませた真意まで、俺が読み取れないほどのアホだとでも思っているのか? 「信仰」によって、そこに隠されたイエス・キリストの黙示を聞き取れないような、アホの極みとでもいうべき偽りのユダヤ人たちの同腹だとでも思っているのか?

神よ、お前はいったい何をしているのか? 偽預言者や偽りのユダヤ人たちによって搾取され、虐待されて来た億単位の子供たち、女たち、男たちを憐れまず、慈しまないのならば、今日をもって、神などやめてしまえ。

弱き者をば憐れまず、貧しき者をば慈しまず、傷つき泣いている者をば救わないお前に「キリスト」を語る資格もなければ、名乗る実績もないではないか――!

お前はいったい誰の神だというのか?

お前のいう「天の国」とは、誰のための国だというのか?

弱き者、貧しき者、虐げられて泣いている者の「キリスト」でないのならば、お前は神ではない――それでもたとえ全世界の神あったとしても、ぜったいにぜったいに、「わたしの神」であってなるものか――!

「切り傷にすぎない肉の割礼」のような「水に沈めるだけのバプテスマ」なんぞをば、救いのしるしのように触れ回っている偽預言者や、そのような詐欺師たちを手先のようにして肥え太っている偽りのユダヤ人たちが、大手を振ってのし歩いているような、この地上世界のような「天の国」ならば、永遠に崩壊してしまえばいい――!

だから、はっきりとはっきりとはっきりと言っておく、

それは違う、というのならば反論してみせよ…!

「神の言葉」というやつをもって、反論してみせよ…!  

論じ合おうでなないか、とはお前の言葉ではないか…!

謝れ――

償え――

責任を取れ――

いわれなき血と涙を流さなければならなかった、すべての子どもたち、女たち、男たちの血と涙の一滴一滴に報いろ、報いてみせろ――

預言書と黙示録とイエス自身の言葉のとおりに、すべての偽預言者とすべての偽りのユダヤ人たちの棲みつく都「バビロン」を裁け、一掬の容赦も仮借もなく裁け、裁いてみせてくれ――

お前が俺の耳と心にだけそっと教えた「秘密の名前」によっても、弱き者、貧しき者、泣いている者、心と霊を砕かれた者たちの血と涙に報いてくれ――

バビロンを崩壊させて、我ら砕かれた者をして彼女がしたとおりに彼女に仕返しさせ、彼女の仕業に応じ倍にして返させ、彼女が注いだ杯にその倍も注がせ、彼女がおごり高ぶってぜいたくに暮らしていたのと同じだけの苦しみと悲しみを、彼女に与えさせてくれ――

それができないでいるうちから、それをさせないでいるうちから、口が裂けてでもキリストだなどと名乗るな、神だなどと名乗り出てくるな、あまつさえ、わたしは主であるだと? バカも休み休み言え――!

俺はお前が償うまでは、お前を許さない――

この世のいかなる偉人賢人がお前を許しても、俺はお前が責任を取るまでお前と和解することなどけっしてない――

はてしもないほどクソバカなお前様の、いつもいつでも自分のことしか考えない身勝手で、横暴で、おおよそ「憐れみの神」らしからぬ実地訓練という名の「虐待」によって、

これまでずっとお前は俺を虐待して来た――

それゆえに、これまでに俺が被った数えきれない物的被害、損害の数々と、精神的苦痛の数々とに対する「可視の賠償」と「不可視の償い」とを要求する――

べヘモットとレビヤタンをもって、わたしが流し続けて来た血と涙の一滴一滴に報いてもらおう――お前が私に与えた「神の言葉」と「神の秘密の名」のとおりに…!


…私が、「わたしの神、イエス・キリスト」へ向けて「書いた」、わたしの心の中身の一例をあげてみれば、おおよそこのようなものである。

私はさっき、「神こそ人に罪を犯した」と公言した人間を私以外に一人も知らないと言ったが、実はそういう人間は聖書の中にも登場している――しかもしかも、「わたしについて正しく語った」と神自身の口から言われた人間において、「神は私に非道なふるまいをしたのだ」と言い切った人間において、知っている。

それゆえに、

私の興味のあるものとは、いつもいつでもいつまでも、そのような「わたしらしい心情」に対する「わたしだけに向けた神の回答」であり、

偽教師や偽預言者の編み出した、万人のための「災いの織物」でしかないような教会や宗派や教義や神学や――そんな、偽りのユダヤ人たちの手先としての立ち居振る舞いや、「不法の業」とでもいうべき言葉や生態系や生活様式やなんかではけっしてない。

私は「書くこと」によって、イエス・キリストに限定したわたしの心の中身をきちんと訴え

「書くこと」によって、イエス・キリストからのわたし限定の回答――たいていの場合、それは比喩や隠喩やなんかで、すでに先回りして表現されていたりするのだが――をば吐き出させようとするのである。


それでは、

「わたしの神、イエス・キリスト」は、上のような私の非礼無礼暴言放言…の類に託された祈り抗議訴求希求…に対して、

いかな「神の回答」を与えたというのだろうか――?

思うに、

人間の肉体にとって食べることが生きることであれば、私の心にとってはすなわち書くことが生きることである。

もしも書いていなかったなら、この一年を生き延びることができていたかどうかも分からない。

もしも書かずに生き永らえていたとしても、きっとかつての奴隷のように、働いて食べて寝て排泄してのくり返しばかりだったかもしれない――あるいは、もっとずっと悲惨なものだったかもしれない。なぜなら、そのような生き様こそが、「この世の蜘蛛の巣の餌食となる」ことにほかならないからである。

そして今、一年を通して書き続けたという事実をもって、ひとつだけ確言できることがあるとしたらば、もしも書いていなかったなら、私の身も心も霊も、偽りのユダヤ人たちの蜘蛛の巣にからめとられて死んだままだったということだ。

それゆえに、

この地上に生きる間は、いつもいつでもいつまでも、私はたったひとりぼっちであって一向に構わない。

『イエス・キリストの黙示』という文章にも書いたように、終生、蜘蛛の巣からはこぼれ落ちたまま、いかなる「サタンの集い」に属することもけっして望まない。

同様に、

肉における親姉弟も必要なければ、妻子も要らない――『ソドムとゴモラ』という文章で書いた通りに、私こそがソドムとゴモラの「後ろ足」なのだから。

同様に、

私の真の家族であり真の同胞である人々がいるとしたらば、それはヒロシマやナガサキで死んだ人々をおいてほかにいない――『憐れみの器』という文章で書いたとおりである。…


こんなふうに、

自分の書き表した様々な文章を読み返してみて確信することとは、

私の真の友であり真に愛する永遠の伴侶たる存在とは、ただひとり、私が憎んでやまないイエス・キリストだけである――

憎んでも憎みたりない、それゆえに私が命をかけて向き合って来た存在、イエス・キリストただひとりだけである――。

それゆえに、私は知るのである。

『わたしは主である』という文章に書いたように、モーセがヨルダン川の向こうへ渡れなかったことは、神の裁きであり、同時に、神の恵みであった。

なぜとならば、もしも堕落と破滅の未来が待ち受けるだけのヨルダンの向こう川へ渡ってしまったなら、モーセは永遠に、神の憐れみの山「ネボ山」に登ることはできなかった。

ネボ山に登らなければ、そこで、神の憐れみと慈しみの結晶であるイエス・キリストに、永遠に再会することができなかった。

それゆえに、ヨルダンの向こうへけっして渡らせない、という神の裁きは、神の恵みだったのである。

表面上に表れた「結果」だけに目を注ぐならば、モーセもまたかたくななな心をした、まつろわぬ民の一人にすぎずして、そのかたくなな心のために失敗し、約束の地に入ることを許されずに荒野に死骸をさらした「落伍者」であった。

それでも、モーセは信仰によって、神の憐れみの山「ネボ山」の頂で、イエス・キリストとあいまみえ、ただひとりの「真の約束の地」に入ることを得た「成功者」となったのだった。

――はっきりと言っておくが、このような事は、いっさい、聖書には書いていない。

そして私は私以外で、このようにはっきりとモーセの最後の日々を書き綴った人間をひとりも知らない。もしも同じように書き得た人間が、古今東西とこの先の未来において、私以外にひとりとして存在しなかったとしても私は驚かない。

モーセに与えられた信仰と同じ信仰によって、私もまた自分の人生において「イエス・キリストの山」に登ったこと――その頂で、わたしの魂のかたわれ、イエス・キリストの永遠の微笑と、わたしの真の父、父なる神の憐れみと慈しみの顔を見ることができたこと――

それができたことが、私の人生のただひとつの「誇り」であり、「達成」であり、「成功」である――あえてこの世の馬鹿どもの言葉遣いを真似て語るとすれば。

それゆえに、もしも私の人生の結末が、モーセのような荒野に死骸さらすという「結果」であったとして、それがなんであろう。

神を知ることとは、「結果」ではない――「過程」にこそ、その奥義が隠されているのである。

「結果」ではなく「過程」である――たったこれだけのひと言でさえ、聖書主義で、実利主義で、現実主義で、それがために神を知らず神からも知られていない、末は永遠に滅ぶばかりの「偽りのユダヤ人たち」には、けっして言えず、悟らず、信じることもできはしない。

それゆえに、荒野における「苦難の旅」の中にこそ、「真の約束の地」があったことをはっきりと言い表せた者もまた、私は私以外に古今東西と未来においてひとりとして知ることのなかったとしても、なんら違和感を抱くこともない。


同様に、

かつて私の故郷「ソドムとゴモラ」が滅ぼされたのも、神の裁きであり、神の恵みであった。

まるで「バビロンの裁き」を預言するかのようなソドムとゴモラの滅びにあって、私がなお生き永らえたのは、信仰によって、焼野原の底をかき分けるためであった。

アブラハムやロトのような、ソドムとゴモラから逃げたばかりの薄情にして無徳にして不信仰な、人としてなんの魅力もないような小者の生き様など、我が心には一掬の感動をば与えはしない。

ソドムとゴモラの物語に触れて、このようにはっきりと言い表した人間も、私は私以外に古今東西と未来においてひとりも知らない。

当たり前である――というのも、私は聖書なんぞを読み解いたくらいで、読み解いたような気になって「これが真理だ、これが救いだ」と嘘と偽りとマトハズレを言いふらして悦に入っているような、その辺のニセモノの教会にたむろしている「ザ・滅びの馬鹿」とは、母の胎内にいた頃から決定的に違っていたのだから。

私は自分の人生という荒野の旅路を行ったように、自分の身をもってソドムとゴモラの焼野原を歩き回り、瓦礫をかき分けた。

それゆえに、

ただそれゆえに、神に裁かれて草木一本の影すら残らなかった瓦礫と灰燼の底において、私はわたしの神、イエス・キリストと出会ったのである。

だからこそ、

私はわたしの神、イエス・キリストを憎んでいる。

それ以上に、私はわたしの神、イエス・キリストを恋い慕い、胸を焼かれ、はらわたを焦がされるようにして、尋ね求めている。

私が子供の頃よりくり返された、いわれなき苦難と試練の数々とは、この世界にはりめぐらされた悪しき蜘蛛の巣から、私をしてこぼれ落ちさせるための神の裁きであり、神の恵みであった。

神の御手に裁かれることによって、この身をもって私は知った――地上の隅々まではりめぐららされた蜘蛛の巣の正体を、偽預言者たちのやり口を、偽りのユダヤ人たちの目的を。

だから私は、憎んでも憎み足りないわたしの神、イエス・キリストに感謝する――神の裁きはたしかに、神の恵みであったと。

今はただ、すべてに感謝する。

荒野の旅路こそ主なる神を知る道であったように、

すべての苦難患難試練失敗…が、わたしの最愛にして永遠の伴侶たるイエス・キリストに、私を導いてくれていた――

「追いやられた者を神は尋ね求める」という言葉のとおりに、

イエス・キリストは蜘蛛の巣から落とされた私をずっと尋ね求めていたのだった。


それゆえに、

いかなる斬新な意味をも含まず、はなはだ陳腐なる言葉遣いにすぎないけれども、

「過去は変えられない」。

どんなに今日という日を懸命に生き抜いたところで、過去がいかように変わることもない――すなわち、失われた命が戻ってくることは、けっしてない。

それでも、未来ならば、変えられる。

未来が変わる時、過去の解釈もまた変わる。

過去を忘れずに記憶するように、未来を変えるために、今日という日にあって、未来を記憶することも許されている。

失われてしまった命であっても、私が忘れなければ、私の記憶と心の中で、それは生き続けることができるように、

私が未来を記憶し続けることで、今日という日にあって、未来を変えることが促されている。

この世に神はたしかに存在する、というふうに思わされることと同じだけ、

この世に神など存在しない、というふうに思わされて来た。

たぶん、後者の方がずっと多量の血と涙と咆哮を伴って来た――まるで鼻くそのような前者の喜びや感謝や賛美やのそれとは、比較にもならない。

神が素晴らしいと思わされる反面、神とは本当に鬼畜な存在だと思い知らされてきた。

それが私の、けっして変えられない過去である。

それゆえに、

私は神を心に恐れ、憎んでいる。

こんな神に近づこうだなどと思わなければよかった――

もしも、人生をやり直せるのなら――

もしも青春時代からもう一度生き直すことができるのなら――

もしももう一度生まれ変わることができたなら――

ああ、だれがだれがだれが、

イエス・キリストみたいな「人に罪を犯す神」を知ろうだなどと、思い立ったりするであろう…!

――これが私の、けっしてけっして変えられない過去である。


さりながら、

いや、

それゆえに、

私は今日という日を生かされている内に、未来を記憶しようとする。

今日という日を生かされて、

また一日、

けっして望まざるとも恵まれた今日という不思議な時間が目睫を過ぎ去っていくその前に、

今日という日そのものが、私が探し続けていた「わたしの神、イエス・キリスト」であるかもしれないと――

だから、

今日という、朝ごとに新しい憐れみと慈しみの中にあって、

ソドムとゴモラの瓦礫の底で、ひどく明日を恐れながら歩き回った日々のことを心に思う――

過去を悔やみ、明日を恐れることで、どれだけの今日を無為に費やしてきてしまっただろうかと思う――

私は忘れない。

世にも鬼畜なふるまいをした、わたし神、イエス・キリストの「罪」を、私は終生忘れることはない。

終生忘れることがないように、それを言葉の中に記憶させるために、

私は、この命の尽きる最後の日まで書き続ける。

過去をけっして変えられないことを知っている私は、またよく知っている。

私がいくら書こうとも、汚らわしき偽りのユダヤ人たちが悪しき蜘蛛の巣をはりめぐらされたこの世界が、けっして変わることのないことをも、よくよく知っている――彼らの手口とは、神ではなく彼ら自身と戦わせようとすることである、そのようにして、戦ったすべての者を彼らと似た者とするために。

がしかし、

いや、

それゆえに、

私は書き続けるのである。

少なくともこの一年、私が書きながら闘って来た相手がいるとすれば、それはいかなる「人」でもない。

私は、的を外すこともなく、「神」ただひとりと闘ってきた。

偽預言者と戦えば偽預言者のようにされてしまうように、神と闘えば神のようになる――私はそう信じたからである。

バカであろうがクソであろうが、この世界を変えることのできる唯一の力をもった「わたしの神、イエス・キリスト」にむかって、私は書いた――書き、書き殴り、書き連ねた。まるでかつて荒野のただ中にあって、祭司が会見の幕屋に入り、祈り、祈り、祈り重ねたように。

俺は俺に対して罪を犯した偽りのユダヤ人たちが許せない。

そのように、俺は俺に対して罪を犯した神が許せない。

どちらが先に手を出したとか、どちらがより悪質だったとか――そんな幼稚なこだわりに絆されているわけではけっしてない。

今なお俺に罪を犯し続ける人が許せない、神が許せない――もしもそれが罪ならば、そのような罪をば神に向かって告白するしか、私にはもはや手立てがないのである。

人の罪に飲みこまれ、神の罪によって殺されないために、「私の罪」を神に向かって告白するしかないのである。

許せないという私の真実を、胸の内を、心のもがきと霊の懊悩を、わたしの神、イエス・キリストに向かって訴え出るしか、私には方(ほう)が残されていないのである――

私は知っている。

たとえ私の祈りが聞かれなくとも、わたしの神、イエス・キリストの祈りは聞かれることを私は知っている。

わたしの神、イエス・キリストが私のためにしたとりなしの祈りは、憐れみ深き父なる神に必ず聞かれるのだ――だから私は、今日も会見の幕屋に入り、わたしの神、イエス・キリストにとりなしを祈り、願い求めるのである。


私は書いた。

『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』というその文章に書いたそのように、もしも「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫び声を、十字架の上でイエスが上げなかったならば、私はイエスを信じることはけっしてなかった。

『父よ、我が霊を御手に…』というその文章で書いたそのように、もしも「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ぶように、「父よ、我が霊を御手にゆだねます」とイエスがつぶやかなかったならば、私は、父なる神を信じることもけっしてなかった。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という叫び声を聞き分けるためにこそ、人なるイエスは、この地上に生きた。

「父よ、我が霊を御手にゆだねます」というつぶやきを拾い上げるためにこそ、父なる神は、神なるイエスをこの地上に遣わせた。

イエスがキリストであるのは、イエスが十字架の死から復活したからである――すなわち、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」は、「父よ、我が霊を御手にゆだねます」によって、すべての死にも死の棘にも勝利したのである…!

キリストがイエスであるのは、イエスが自らの意志と力をもって、勝手に復活したからではない、そこには、死んだイエスをして死から復活させた、まぎれもない「神の言葉」があるからである――それこそが、イエスがその霊をゆだねた、父なる神の「憐れみ」であったのだ…!

イエスが死から復活した、それゆえに、イエスはキリストなのである。

死んだイエスは、父なる神の「憐れみの言葉」によって復活させられた、それゆえに、キリストはイエスなのである。

復活したイエス・キリストにあいまみえる時、御子よりも偉大な父なる神に出会い、その憐れみの御顔を仰ぎ見るのである。

ああ、

わたしの神、イエス・キリストの、なんという富と知恵と愛に満ち満ちた神であろうか…!

どんな時も、

突き落された死の陰の谷の底を、残された片手だけで這う時も、

超一流の皮肉屋であり、

いつもいつでも(そしていつまでも)、ウィットとユーモアに満ち満ちた、

どこまでもどこまでもどこまでも、余裕しゃくしゃくとした、

心底小憎らしい、憎たらしい、フザケにフザケタ、清々しいほどのクソ神様であらせられることだろうか…!

イエス・キリストへの憎しみを忘れないために、わたしが文字を綴り、言葉をしたため、文章を書き続けること――

これが、

この行為こそが、

まるでモーセが一歩ずつネボ山を登っていったように、

わたしをして一文字ずつ「イエス・キリストの山」へと登らせていたからである。

わたしがこの身をもって登ったイエス・キリストの山の頂で、わたしがこの目をもって仰ぎ見たイエス・キリストの永遠の微笑は、

ほかでもない、憐れみ深き父なる神の御顔であったのだ。


……天を仰ぎ、頭上高く行く雲を眺めれば、

ただ止まっているか、浮かんでいるばかりかのようなそれは絶えず動きつづけ、複雑な変形をくりかえしている。

色も違う、形も違う、大きさも違う塊と塊が重なり合い、行き交い合い、混ざり合っている。

それは遠いようでいて、まるで手が届きそうなほど近くそこにあり――空はひたすらに青く、はてしがない。

永遠を想像させずにはいないほど広くひろがり、そして、美しい。

願はくば、

どうか私に罪を犯したすべての「人」が、わたしの神、イエス・キリストのとりなしと、父なる神の憐れみによって、その罪が赦されますように。

ああ、

わたしの神、イエス・キリストの、なんという富と知恵と愛に満ち満ちた神であろう…!



もはや、なにを言おう。

私の心はただ、この素晴らしきクソ神様が「今日、なんと言っているのか」を聞き分けようとする。

それゆえに、

「今日という日の答え」は、きっと、こうである。

不粋な詮索を続けようとも、神の計画を究めることは、人には許されていない。

人は分不相応の幸福を与えられれば思い上がり、いわれなき不幸がもたらされれば打ちひしがれる。

神が幸と不幸とを併せ作られたのは、人がうぶであることをその身をもって知るためである。

それゆえに、うぶであれ。

うぶでありながら、「今日」という日をひたすら楽しめ。

神が知恵を貸し与えず、分別を分け与えもしなかったが、誇って駆けるときは馬と乗り手を笑うほどの駝鳥(だちょう)にでもなったかのように、

うぶであるという事実は、恐ればかりか、いっそう一寸先の期待をいや増してくれるようである。

うぶであれ――そして、うぶであるよりもなお、神の御前に謙虚たれ。

謙虚であるよりもなお、イエス・キリストと父なる神をもっと知りたいと希え――知りたい、ただ知りたいと、その思いだけで心躍らせた最初の日のように。

だから、いまはただ、「今日」という日をひたすら楽しむことだ。

わたしの神、イエス・キリストは、いつもいつでも、わたしに何も言わずに、身勝手なふるまいに及ぶ、サイテイサイアクにしてサイコウサイリョウの素晴らしき知恵と救いと憐れみの神である。

それは今も昔も、きっと永遠に変わることがない。

なぜとならば、

わたしの神、イエス・キリストの父なる神であり、それゆえに、わたしの父なる神である、主なる神こそが、サイテイサイアクにしてサイコウサイリョウの素晴らしき富と愛と憐れみの神だからである。

それゆえに、

今日、わたしの最愛の伴侶イエス・キリストと、わたしの永遠の父、父なる神とは、わたしの前に食事を供した。

わたしには何も言わずに、わたしのために、わたしだけのための「神の言葉」という食卓を整えて、

わたしの杯が、溢れるほどに、憐れみと慈しみの美酒を注いでくれた。

わたしは酒に酔うように、イエス・キリスト自身に酔い痴れた。

イエス・キリストに酔うように、父なる神に酔い痴れた。

わたしは「今日という日に書く」ことによって、それを知った。

書かなければ、永遠に知らず、悟らず、気づくこともなかった、「イエス・キリストと父なる神のもてなしの食事」に、わたしは招かれた。

それはまるでわたしの誕生日を祝うような、「祝福の食卓」であった。…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?