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ギブオンの夢枕 ①


――
その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。 ソロモンは答えた。「……しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。 僕(しもべ)はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。 どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
主はソロモンのこの願いをお喜びになった。
――


別段なんという自慢話でもないが、

サラリーマン時代に私がしていた仕事のひとつとは、当時、日本でも数人しかできないようなそれであった。

「数人」とは、いささか誇大表現に当たるかもしれないが、実際の様相としても、現場の最前線に立っていた者の体感としても、そうとしか言いえなかった。

もちろん、今に至ってその数は数倍に増えていることだろうし、当時の私などよりもずっと巧みに、ずっと的確に、そしてずっとたしかな情熱を持って取り組んでいる人材が量産されていることであろうが。

ほんの須臾の間とはいえ、それぐらい特殊といえば特殊な仕事に従事していた私であったが、顧みれば、その頃の私こそがサラリーマン人生においてもっとも仕事に情熱を持たない私であったと言うことができる。

持たないというよりも、「持てなかった」といった方がより正確であり、さらには、例によって例のごとく、もうあまりにもバカバカしくってやってられなかったというのが、嘘偽りのない事実といったところである。(まあ、この世の大概の仕事というやつが、そのような本質のシロモノでしかないのであろうが。)

それゆえに、

同じ仕事を通じて、これという認識も無きままに、国内外の財界における有力者とみなされるような人間たちとも日常的に接触を重ねていたものの、

はっきり言って、そういった手合どもの垣間見せる人となりなり人間性なり品性なり品格なりいうものからしてがまた、心底「バカバカしい」と感ぜられてならなかった。

資本主義なる仕組みによって成り立っているこの世の中を睥睨してみた日には、いかなる心をした手合であれ、同じ彼らの意思によってこそ大多数の人間の運命が左右されるような諸事項に決定がくだされていたには相違ないわけで、

すればもしくは、まさにあの時私こそが、プロレタリアートとして最大の好機を前にしていたのかもしれなかったが。

さりながら、そのようないっさいが、今となってはもはやどうだっていい話である。

もとい、その瞬間においてもどうでもよかったし、これは言葉の通りに確言するものだが、この私にとっては「永遠永劫に渡って」、ツマラナイ、クダラナイ、取るに足らない話題でしかありえない――

先に結論を述べてしまえば、これがサラリーマンであり労働者であり生産人口であった私の半生の要約にして、結論である。

すなわち、サラリーマンであり労働者であり生産人口であり、かつ模範的な納税者であり小市民であり有権者であり続けるには、私という人間は、あまりに豊かな想像力と、先鋭な洞察力と、率直かつ実直な感受性とに恵まれすぎていたわけである。


これも特段、自惚れでもナルシシズムでもなんでもない。

すべては真実であり、私以外の者にとっては何の意味もなさないような、はなはだちっぽけな真実である――それの説明に用いた「豊かな…」とか「先鋭な…」とかいう言葉遣いが一般に好かれないことぐらい、重々承知の上であえて選んで使っている。

だから私は、情熱を持って日々の労働に取り組めなかった過去の自分を悔やむこともなければ、自己批判することもいっさいない。

むしろ、まったく反対(あべこべ)に、そんな体たらくでしかなかった自分をおおいに評価している。

天賦の叡智ともいうべき想像力も、不断の鍛錬によってより研ぎ澄まされた洞察力も、私は私のために、もとい、「金」のために用いなかった。

今でもそのような若き私を私は評価しているし、あるいは誰からも、ひとつの文句も言われることなくそうすることのできたはずなのに、それをけっして許さなかった私の人生の進行模様についても、感謝すらしているのである。

とどのつまり、

けっしておおげさな表現でも、誇大妄想でも、あるいは単なる妬み嫉みの裏返しでもなく、

若き私は、悪しざまに形容すれば、そのいつまで経っても成長しないような感受性によって、現世のはかなき繁栄よりも、もっと別なものへ心眼を注ぎ、心耳を澄まし、霊魂を傾倒することができたというわけである。

だから私は、感謝している。

守秘義務というやつがために、事の詳細を語ることができないからリアリティにも説得力にも欠けてしまうのだが、

冒頭のソロモン王のような、「民を正しく裁き、善と悪を判断できる」ような人間をば、私は国内外の有力者の中にただのひとりとして見出すことはなかった。

かつ、「わたしは取るに足らない若者」という言葉をその身をもって解する者も、「あなたの民を…」という言葉の「あなたの」にとりわけて共感する者も、私は私をおいてほかには、ただのひとりたりとも邂逅した事実もない。

それでも――

それでもなお、子供の頃にソロモンのこの祈りに触れ、たしかな感動を覚えてからというもの、それをしかと心にとどめ、記憶にとどめ、さらにはその身をもって実践しようとして来た、私の知り得るかぎりの世界におけるたったひとりの孤独な人間であり続けようとすることを、私はけっしてやめようとしなかった。

あるひとつの資本主義の最前線にいたり、あるいは人生最大の好機であったかもしれないその瞬間においてでさえ、私はそんなマトリックスだのアルゴリズムだのいうものの渦中に溺れ、底へ沈んでゆくことがなかった――

もしも、プロレタリアートという(私にとっては)マトハズレな人生の日々を通して、ただひとつ、私が誰かに向かって自慢したいものがあるとすれば、このような私の生き様に他ならない。


がしかし、

たとえそんなふうに、わたしの神イエス・キリストと、父なる神とに向かって自慢してもはばからないようなこの私であっても、当然のごとく、愚かな失敗を犯している。

当然のごとく、絶対のごとく、あるいは始めから決まっていたなんぴとたりとも逃れられない運命のごとく、私は失敗し、もしくは不幸に見舞われ、あまつさえいわれのない苦難にまで襲われて、なんどとく、死の陰の谷を歩かされて来た。

これもまた、いかなる誇張でもなければ、苦労や不幸のひけらかしといった類でもない。

ただ、ひとつだけ確かなこととは、先の資本主義の一先端におけるような体験と、しょせん三面記事にもならないようなありきたりの不幸と、いったいどちらについて「より大きな情熱」をもって相対していたかと問われたならば、間違いも疑いもなく、後者の方であった。

それゆえに、ありきたりであれ、月並みであれ、なんであれ、不幸や苦難という形として我が身の上に下された神の御手とは、くだんの天稟の叡智をもってさえまったく何の役にも立たず、不断の研鑽にいたってなお己の身を救ってくれるものでもなく、それまでのすべての経験も、経験によってもたらされたあらゆる知恵も知識も、すべてなべておしなべて、純然たる児戯のそれにすぎなかったという事実を突きつけられるかのような、圧倒的な痛みをもたらしたのだった。

こんなことならば、すべての知恵なるものをばただひたすら自分のために、金のために、資本主義のために用いておけばよかったと思わせるほどに。

また、この苦痛から逃れられるのならば、すべての神からの賜物というやつをば、ひとつ残らず引き換えにしても良いと思ったほどに。…


だから私は、「自分で食べて、自分で味わえ」という言葉の意味がよく分かる。

そして、

我が身をもって食べ、なめ尽くした神の御手のその下の、呻きと嘆きと哀歌をもって以下のように言うものである。

「もしも今日、

何事でも願うがよい、あなたに与えよう、

と、わたしの神イエス・キリストと父なる神とから言われたならば、

私はまずもって、

「金、健康、時間、家族、友人のすべてが揃った人生なんか要りません」

と答えよう」、と。…


つづく・・・



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